この歌は六七一年十二月に天智天皇が崩御した際、姓氏不明の婦人が詠んだ歌です。この歌の前には倭大后(やまとのおおきさき)の歌が、後には石川夫人(いしかわのぶにん)、額田王(ぬかたのおおきみ)らの歌が並び、「天智天皇挽歌(ばんか)群」とも呼ばれる九首(一四七〜一五五番歌)の中の一首です。 題詞には「天皇の崩(かむあが)りましし時に、婦人の作れる歌一首」とありますが、この歌だけを取り出してみたとき、挽歌(死に関する歌)というより相聞(そうもん)(恋の歌)の要素を強く感じます。 前半では遠く離れている「君」を嘆き、恋い求めています。類似した表現は恋の歌にも見え、例えば大伴家持(おおとものやかもち)が恋人の坂上大嬢(さかのうえのおおおとめ)に贈った長歌には「…うつせみの人にあるわれやなにすとか一日一夜も離り居て嘆き恋ふらむ…」(現世の人間である私は、どうして一日中も一晩中も、このように離れていて嘆き恋しく思っているのだろうか。/巻八・一六二九番歌)とあります。 また、後半の表現も恋の歌に見え、たとえば坂上大嬢が家持に「玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻きがたし」(あなたが玉でしたら、手にも巻いて離さずにいましょうものを、現実の世の人ですので、手に巻きかねます。/巻四・七二九番歌)と歌うと、家持も玉になってあなたの手に巻かれたいと答えています(巻四・七三四番歌)。今回の挽歌を家持と坂上大嬢が相聞に転用した可能性もありますが、恋の歌にあって違和感のない歌い方です。また「夢」も万葉集では恋の歌に用いられる例がほとんどです。 今回の歌は「うつせみし神に堪へねば」の冒頭二句で挽歌たりえていると言えます。現世の人間は神には抗(あらが)えない、寿命に逆らえないと規定しており、「離り居て」も単に距離が離れているのではない、死による別離として嘆きが表されています。 この後、壬申(じんしん)の乱が起こり、天武天皇が即位します。天武・持統天皇のころから柿本人麻呂が活躍し、数々の挽歌を作って発展させますが、今回の歌はそれ以前のごく初期の挽歌です。対句が整っていない、たどたどしい歌とも言われますが、「わが恋ふる君」への恋情を繰り返し記すこの歌には率直な魅力があります。作者の名が記されないながらもここに載せられているのは、この歌の力によるのではないかと考えられます。 この相聞のような挽歌からは、対象が生きていても亡くなっていても「恋ふる」気持ちは同じなのだと実感できます。 (本文 万葉文化館 阪口由佳)
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