奈良県の北西、緑深い矢田丘陵の南端近くの生駒郡斑鳩町。かつては地名の由来ともなった、黄色い嘴(くちばし)が特長のイカル(鵤)が群れをなして飛んでいたという。
斑鳩町といえば、法隆寺を創建した聖徳太子。今回は、その太子と愛馬の黒駒(くろこま)、太子の舎人(とねり)(世話係)調子麿(ちょうしまろ)とのとても不思議なお話。
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太子、二十七歳のときのこと。甲斐国(かいのくに)(山梨県)から献上された黒駒を太子が「神馬(じんめ)」と見抜き、調子麿にその世話をさせた。調子麿は、百済の聖明王(せいめいおう)の縁者といわれ、温厚な人柄で太子に献身的に仕えた。
ある日、太子が黒駒に試乗したところ、何と不思議、調子麿とともに雲に乗り天高く飛び上がった。
太子たちは東へ向かい、さらに富士山を越え、信濃国(しなののくに)(長野県)を過ぎ、三日後に飛鳥の地に帰ってきた。「飛ぶこと雷電のごとし」と。
太子、三十四歳のとき。斑鳩の地に斑鳩宮(今の法隆寺東院付近)を造り移り住んだ。時の推古天皇の皇太子として政務に励む傍ら、ここで内政、外交、文化の思索に没頭、また仏教の研究、興隆(こうりゅう)に力を尽くした。
当時の都、飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へは黒駒に乗り、調子麿を従えて片道約20キロメートルの道を往復されたという。
太子、四十二歳のとき。太子が片岡山(北葛城郡王寺町付近)を通りかかったとき、黒駒がなぜか歩みを止め、太子が鞭(むち)をいれても進まない。道端に飢えた人が横たわっていた。太子は飢人(きじん)に、食べ物と自らの衣服を脱いで与え、「安らかにお休みなさい」と語りかけた。
太子が調子麿に「かの人、かうばしやいなや(いい香りがしたか)」と尋ねると、「はなはだかうばし(とてもいい香りがした)」と答えた。飢人が顔を上げると、目に金色の光がさしていた。太子は飢人を聖(ひじり)と直感。この飢人こそは、実は禅宗の開祖、達磨大師の化身であったといわれる。
今、法隆寺の境内、聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)脇の「馬屋」には、黒駒と調子麿の木彫が収められている。
(『日本書紀』『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』『聖徳太子絵伝(えでん)』他を参考にしました)