明治23年1月15日、樺戸郡新十津川村設置
新十津川町の成り立ち
人口6700人余の北海道樺戸郡新十津川町は、明治期に移住した十津川の人びとが切り開いてできました。
新十津川町の人びとは奈良県を母県(ぼけん)、十津川村を母村(ぼそん)と呼びます。奈良県とのゆかりが深い町です。
明治の水害と北海道移住の決意
今から約130年前の明治22(1889)年8月、奈良県吉野郡一帯はすさまじい豪雨に襲われます。十津川の被害は甚大(じんだい)で、死者は168人、生活の基盤を失った者は約3千人にのぼりました。
新たな生活の地を求めて、2489人は北海道への移住を決心します。
明治22年10月には神戸から船に乗り小樽へと向かいます。十津川の移住した人びとは、小樽から空知(そらち)郡の空知太(そらちぶと)まで移動し、そこで雪解けを待つことになります。
そのような中で、年が明けて1月15日には、移住先となる樺戸郡徳富(とっぷ)に母村にちなんで「新十津川村」と命名された新しい村が設けられたのでした。
新十津川の発展へ
明治23(1890)年6月、遅い北海道の春を待って石狩川を渡り、トック原野に移住します。
原生林を切り開く開墾作業は困難を極めますが、十津川の移住した人びとの不撓不屈(ふとうふくつ)の取り組みにより、水田開発を推し進め、大正期には人口1万5千人を超え、空知管内で屈指の米作地帯へと成長するまでになりました。
「県民だより奈良」2023年1月号掲載記事より