奈良県の歴史

明治20年11月4日に誕生した、現在の「奈良県」

 「奈良県」の名称が初めて登場するのは、慶応4(1868)年5月19日のことです。新政府は、大和に大和鎮台(やまとちんだい)(後の大和鎮撫総督府(やまとちんぶそうとくふ))を置き、大和の旧幕府領(十津川郷を除く)・旗本領・社寺領を管理させました。その後、大和鎮撫総督府は廃止され、奈良県が置かれました。

明治4(1871)年7月の廃藩置県により、大和には奈良県をはじめ15県が成立しましたが、府県の統廃合が進み、明治4年11月22日に現在と同じ地域的規模を管轄する奈良県が誕生しました。

しかし、それもつかの間、明治9(1876)年4月18日に堺県に、さらに明治14(1881)年2月7日には堺県も大阪府に統合されてしまいました。

こうした府県の統廃合で、当時の大和の人たちが期待した産業振興や教育、治山・治水などの予算の確保はままならなくなりました。

このため、大阪府会の大和選出議員らが中心となって、奈良県再設置のための運動が進められました。ときの内務省・太政官・元老院への陳情を重ね、奈良県再設置実現に向けて奔走しました。

そして、ようやく明治20(1887)年11月4日に再設置が認められ、結果、現在の奈良県が誕生しました。

奈良県の歴史を振り返り、再設置運動を知ることは大切なことです。再設置に尽力した人々の思いと共に次の世代に奈良県をしっかりと引き継いでいきましょう。

勅令

奈良県設置の勅令(国立公文書館所蔵)


「県民だより奈良」2022年11月号掲載記事より

明治23年1月15日、樺戸郡新十津川村設置

新十津川町の成り立ち

人口6700人余の北海道樺戸郡新十津川町は、明治期に移住した十津川の人びとが切り開いてできました。
新十津川町の人びとは奈良県を母県(ぼけん)、十津川村を母村(ぼそん)と呼びます。奈良県とのゆかりが深い町です。

明治の水害と北海道移住の決意

今から約130年前の明治22(1889)年8月、奈良県吉野郡一帯はすさまじい豪雨に襲われます。十津川の被害は甚大(じんだい)で、死者は168人、生活の基盤を失った者は約3千人にのぼりました。

新たな生活の地を求めて、2489人は北海道への移住を決心します。

明治22年10月には神戸から船に乗り小樽へと向かいます。十津川の移住した人びとは、小樽から空知(そらち)郡の空知太(そらちぶと)まで移動し、そこで雪解けを待つことになります。

そのような中で、年が明けて1月15日には、移住先となる樺戸郡徳富(とっぷ)に母村にちなんで「新十津川村」と命名された新しい村が設けられたのでした。

新十津川の発展へ

明治23(1890)年6月、遅い北海道の春を待って石狩川を渡り、トック原野に移住します。

原生林を切り開く開墾作業は困難を極めますが、十津川の移住した人びとの不撓不屈(ふとうふくつ)の取り組みにより、水田開発を推し進め、大正期には人口1万5千人を超え、空知管内で屈指の米作地帯へと成長するまでになりました。


「県民だより奈良」2023年1月号掲載記事より
関連年表

ことがら

慶応3(1867)年 将軍徳川慶喜、大政を奉還する
慶応・明治元(1868)年 新政府は、天領だった奈良に大和鎮台(のちの大和鎮撫総督府)を置く。大和鎮撫総督府は廃止され、奈良県と名をかえる
明治2(1869)年 大和国の藩主が版籍奉還を上表する
明治4(1871)年

藩を廃止して、府と県がおかれ(廃藩置県)、大和国内に15県が成立する。そののち、大和全域を管轄する奈良県が置かれる

明治9(1876)年 奈良県が堺県に合併される

旧寧楽書院(きゅうならしょいん)の県庁舎(けんちょうしゃ)の写真(しゃしん)

旧寧楽書院の県庁舎

明治14(1881)年 堺県が大阪府に合併される
明治20(1887)年 大阪府から独立して、奈良県が再設置される
第1回県議会議員選挙が行われる
明治21(1888)年 第1回奈良県議会が東大寺大仏殿回廊で開かれる
明治22(1889)年

十津川地方豪雨

参考「青山四方にめぐれる国 奈良県誕生物語」