この歌は『万葉集』巻八「秋の雑歌(ぞうか)」の部に収められており、直前の一六〇三番歌と同じ天平十五(七四三)年の秋に作られたとみられます。この歌の直後には大伴家持の歌「高円(たかまと)の野辺(のべ)の秋萩(あきはぎ)このころの暁露(あかときつゆ)に咲(さ)きにけむかも」(一六〇五番歌)が配されます。春日と高円の地はともに平城京の東に位置します。今城が春日の山の黄葉を歌い、家持が高円の野の秋萩を歌い返し、今や廃都となって見ることがかなわない平城京の秋景をしのんでいます。今城と家持は親交があり、このように歌を詠み合うことがありました。 この歌が詠まれた当時の都は恭仁京(くにきょう)で、平城京から遷都して三年目の秋を迎えていました。遷都に伴い、今城や家持など臣下の人々も恭仁京へ移っていましたが、住み慣れた平城京に心を寄せる人は多く、荒れてゆく「寧楽の故郷」を惜しむ歌が『万葉集』巻六にも見えます(一〇四四~一〇四九番歌)。 ところがこの頃、聖武天皇は恭仁京を離れ、紫香楽宮(しがらきのみや)での造営事業に邁進していました。同年の秋七月に紫香楽宮へ行幸した聖武は十一月まで恭仁京へ戻らず、十月に「大仏造立の詔(みことのり)」を紫香楽宮で発しています。十二月には費用がかかりすぎることを理由に、恭仁宮の造営が停止されました。 その後の紆余曲折を経て、天平十七(七四五)年に都は平城京へ戻ります。還都後の同二十(七四八)年には今城は平城京一条三坊に居住していたことが古文書の記載から知られます。こうして今城はなつかしい寧楽の都での生活を取り戻したのでした。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
8月号の和歌の振り仮名について、「いずち」は「いづち」の誤りでした。また、解説本文2段目の6行目「七五三番歌」は「五七三番歌」の誤りでした。お詫びして訂正します。
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