この歌は、大伴駿河麻呂が、大伴坂上郎女の歌に対して即座に唱和した一首です。 直前に、大伴坂上郎女が親族との宴の際に詠んだ「山守(やまもり)のありける知らにその山に標(しめ)結(ゆ)ひ立てて結(ゆ)ひの恥(はぢ)しつ」(山の番人がいたのも知らないで、その山にしるしを結んで、「結ひの恥」をしたことよ)という歌があります。ともに巻三の譬喩歌(ひゆか)に分類されており、歌の表現には比喩や寓意(ぐうい)が含まれています。「山守」や「山主」が求婚する男性を、「山」は求婚される女性を意味し、坂上郎女の娘を指すとみられます。 巻四・六四九番歌の左注に、駿河麻呂は「高市大卿」(大伴御行か)の孫、坂上郎女は「佐保大納言卿」(大伴安麻呂)の娘とあることから、二人は叔母と甥の関係だったことがうかがえます。 駿河麻呂は、天平十五(七四三)年に従五位下となり、天平十八(七四六)年から越前国守を務めました。天平宝字元(七五七)年、橘奈良麻呂の変に加わったとして処罰されましたが、宝亀元(七七〇)年に出雲国守として復帰、宝亀三(七七二)年には陸奥按察使(みちのくのあぜち)(東北地方の行政監督)に任命され、一旦は老いを理由に辞退したものの、陸奥鎮守将軍として東北地方を鎮圧、その功績により宝亀六(七七五)年に参議となり、正四位上・勲三等に叙せられました。宝亀七(七七六)年七月七日に没した際には、従三位を追贈されています。 大伴氏は武門の家であり、六七二年の「壬申の乱」では駿河麻呂の祖父世代が活躍していました。駿河麻呂も東北地方の鎮圧で著しい功績をあげており、光仁天皇の信頼もあつい人物であったと伝えられています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
平城(なら)の都の北側には、平城山が続いており、その南東側の麓に広がるのが佐保の地です。この地は南に向いたなだらかな傾斜になっており、景観も良いため、多くの貴族が住んでいました。 奈良時代には大伴氏との縁も深く、佐保の地名や佐保川などの付近の情景を詠んだ歌は『万葉集』にも多く見られます。大伴家持の祖父で壬申の乱で功を立てた大伴安麻呂は、「佐保大納言卿」と呼ばれたように平城京では佐保に邸宅を構えました。その後、大伴旅人や坂上郎女、家持などもこの地に住んだと伝えられています。
スマホアプリ「マチイロ」でも電子書籍版がご覧になれます。 詳しくはこちら
電子書籍ポータルサイト「奈良ebooks」でもご覧になれます。 詳しくはこちら