この歌は、冬に人目を引く赤い実をつける山橘(別名:藪柑子(やぶこうじ))になぞらえて、秘めた恋心を顔色に出して世間に知らせるよう女性へ促したもので、『万葉集』巻四、相聞の部に収められています。 作者の春日王は、父の志貴皇子(しきのみこ)(天智天皇の皇子)、母の多紀皇女(たきのひめみこ)(天武天皇の皇女)の間に生まれた男子で、天智・天武両天皇を祖父とする高貴な血統の王族です。 志貴皇子には、多紀皇女の他に紀橡姫(きのとちひめ)という妻がおり、橡姫との間に生まれた男子の白壁(しらかべ)王は後に即位して光仁天皇となりました。光仁が即位した七七〇年当時、志貴は既に亡くなっていましたが、志貴には「春日宮御宇天皇」という追号(ついごう)が贈られ、以後は天皇の父としての扱いを受けました。 志貴の追号に見える春日宮は、彼が所有していた宮の名前です。志貴が亡くなった際に作られた挽歌が『万葉集』巻二にあり(二三〇~二三二番歌)、それらの中に「高円山(たかまどやま)」「御笠山(みかさやま)」など春日一帯の地名が見えることから、志貴は春日宮において亡くなったと考えられています。また、志貴の母である越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)は北陸地方を本拠地とする道氏(みちし)出身の采女(うねめ)で、道氏は春日一帯を本拠地とする春日氏との関わりが深いとされ、志貴は春日氏との関係により春日宮を所有したと言われています。古代の王族の名前には幼少期の養育に関与した氏族名が付けられることが多いので、春日王の養育には彼の父方祖母と関わりのある春日氏が携わったのかもしれません。とすると、七一六年に志貴が亡くなった後の春日宮は、春日王が継承した可能性もあるでしょう。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
志貴皇子の春日宮が近くにあったと考えられる高円山は、春日山の南に位置する標高432mの山です。山頂からは、奈良盆地を眼下に一望することができます。また、8月の奈良大文字送り火が行われることでも知られています。
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