柿本人麻呂は史書に登場せず、生没年や系譜や官職など一切不明ですが、『万葉集』を見る限り、持統・文武両天皇の時代に活動して百首近くの歌を残した人物です。吉野行幸での儀礼歌(巻一・三六~三九番歌)や『万葉集』中で最も長い高市皇子(たけちのみこ)挽歌(巻二・一九九番歌)などの長歌作品が特徴的で、独特な表現を多用することでも知られます。『万葉集』には「柿本人麻呂歌集」から採ったとある四百首近い歌もありますが、すべてが本人の作歌ではないと考えられています。また、平安時代に編纂された『古今和歌集』の序では歌の聖(ひじり)として讃えられ、近世には和歌の神様として祀られる対象ともなりました。 この歌は「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時」の作と記された長歌と反歌二首(巻二・一六七~一六九番歌)に続く「或る本の歌」で、持統天皇三(六八九)年に没した草壁(くさかべ)皇子(日並皇子尊)への挽歌と考えられます。 「島の宮」とは草壁皇子が生前に住んでいた宮であり、もともとは島大臣(しまのおおおみ)とも呼ばれた蘇我馬子(そがのうまこ)の邸宅があった場所でした。この「島」とは、人工の池とその中に築かれた小島を有する庭園を意味し、自宅にそのような庭園を造ったのは臣下としては馬子が初めてだったことから、島大臣と通称されたといいます。石舞台古墳の西方にあったと推定されており、現在そのあたりの地名を島庄(しまのしょう)というのもその名残とみられます。 ただし、島庄遺跡からは「勾の池」に相当するような湾曲した池の遺構や「島」の重要な構成要素である人工の築山の痕跡は検出されていません。もしかしたら今後の発掘調査で発見されるのではないか、と期待を抱いているところです。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
スマホアプリ「マチイロ」でも電子書籍版がご覧になれます。 詳しくはこちら
電子書籍ポータルサイト「奈良ebooks」でもご覧になれます。 詳しくはこちら