本歌は、巻三の挽歌(人の死を悼む詩歌)に収載されており、四二〇番歌の題詞に「石田(いわた)王の卒(みまか)りし時に、丹生王の作れる歌一首」とあるように、石田王に対する丹生王の挽歌(四二〇~四二二番歌)のうちの一首です。よって、本歌の「君」は石田王を指します。 石田王は忍壁(おさかべ)皇子(刑部(おさかべ)親王)の子で、山前(やまさき)王の兄弟と考えられています。四二五番歌の左注では、山前王が石田王に代わって、紀(き)皇女への挽歌を詠んだことが見えます。石田王は悲しみのあまり、歌が詠めなかったのでしょうか。このことから、石田王と紀皇女が婚姻関係であった可能性がありますが、不詳です。 丹生王は系譜未詳ですが、丹生女王と同一人物との説があります。その場合は、大伴旅人が大宰帥(だざいのそち)として赴任した際に歌を贈っていることが分かります(巻四・五五三、五五四番歌)。石田王が亡くなった段階では、その妻であったと考えられます。 「石上」は石上神宮を中心とした一帯の総称です。「布留の山」はその中にあり、石上神宮の東方に位置しました。現在も天理市に石上町や布留町の地名が残っています。 「杉群」とあるように、石上には杉林があります。その中でも、神杉と称される神聖な杉があり、『万葉集』の中でも詠まれています(巻十・一九二七、巻十一・二四一七番歌)。現在でも、樹齢三百年を越える杉があります。杉の神性について、「直(す)ぐ木」から名付けられたとの説もあるように直立した巨大な常緑高木の姿、屋久島には樹齢数千年に及ぶものがあるほどの長命、また素材として建築など幅広い用途があることなどに、古代人は霊威を感じたのではないでしょうか。 (本文 万葉文化館 中本和)
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