大和平野の水不足は、農業用水だけでなく飲料水についても例外ではありませんでした。
大和川は、水量が乏しく水源とすることができないため、ほとんどの地域が地下水にたよってきました。
しかし、その地下水は水質に恵まれず、特に「かなけみず」といわれるように、鉄・マンガンの含有量 が多く、飲料水として利用するために苦心してきました。
また、水量も不安定なものでした。
昭和30年代に入り、急激な人口増加とともに、生活環境の向上によって水の使用量 も著しく増え、さらに水道の普及、産業の近代化、工場の進出などにより水道用水の需要は、年々伸びつづけました。
このような環境のもとで、水道事業を経営する市町村が個々に水源を確保していくことは、次第に難しくなってきました。
新しい水源を開発しようにも、市町村の財政力や水利権の取得などの面 で問題もあり、不可能な状態でした。
昭和39年、奈良県は深刻な干ばつに襲われ、断水・時間給水を余儀なくされたことをきっかけに、根本的な水源確保の対策を望む声が急速に高まってきました。
すでに、吉野川の水は大和平野に流れこんでいましたし、宇陀川の水を大和平野へ引きこむ見通 しもついていました。
県はこれら二つの水源をもとに、大和平野の25市町村に対し、広域的な県営の水道事業によって、長期かつ安定した良質の用水供給を行う方針を決定しました。
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