屋上庭園万葉スクリーンに掲示している万葉歌の紹介、第6回は、NO.6 磐余(いわれ)です。
ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ
(万葉集第3巻 416番 大津皇子(おおつのみこ))
〈現代語訳〉
百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去るのだろうか。
〈解説〉
朱鳥元年(686年)10月に、謀反の疑いで捕らえられ死を賜ったとされます。この歌は死に際して詠んだとされる辞世歌です。磐余には大津皇子の宮があったと考えられています。天武天皇の皇子であり文武両道に秀でていましたが、叔母に当たる持統天皇が、わが子である草壁皇子に皇位を継がせるため、大津皇子を謀反の罪に問うたといわれています。『懐風藻』には、辞世の詩も伝えられています。
磐余(いわれ)は桜井市阿部から橿原市東池尻町にかけての地域の古地名で、屋上庭園から真南の方向にある天香具山の北東麓にあたり、大和朝廷時代には政治的要地でした。磐余の池は現存しませんが、橿原市東池尻町の御厨子神社付近にあったとする説が有力です。
作者の大津皇子(おおつのみこ)(663-686)は天武天皇の皇子で、身体容貌ともに優れ、学問にも武芸にも秀でており、多くの人々の信望を集めた抜群の人物だったようです。わが子である草壁皇子(くさかべのみこ)に皇位を継がせたかった鵜野讃良皇女(うのさららのひめみこ)(大津皇子の叔母、後の持統天皇)にとっては、大津皇子は大きな障壁でした。天武天皇が没したわずか1ヶ月後に、大津皇子は謀反を企てたとして捕らえられ、磐余の訳語田(おさだ)にあった自宅で自害させられましたが、この事件の首謀者は鵜野讃良皇女だったと考えられています。
今回の歌は、「大津皇子、死を被(たまわ)りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首」という題詞が付いた辞世の歌です。24歳の若さで無実の罪を着せられ処刑されることになった大津皇子が、自宅の近くにあった磐余の池を見て、このような悲しい歌を詠んだのでしょうか。
「ももづたふ(百伝ふ)」は、「磐余」にかかる枕詞です。数を数えていって百に達するの意から、「五十(い)」と同音の「い」を含む「磐余」にかかることになったようです。
「雲隠(くもがく)りなむ」については、「雲隠る」は死ぬことの婉曲表現であり、「なむ」は「きっと…だろう」ほどの意味ですが、この箇所の表現から、この歌が大津皇子の自作であることを疑う意見もあるようです。