「衾道」とは、ここから少し北東へ進んだ「衾田陵」などがある衾田へと続く道のこと。そこを通り、引手の山へと歩いた柿本人麻呂。引手の山に墓があったのでしょうか。当時、死者の魂は、山にかえると考えられていたようです。
この歌は、長歌(巻2-210)と合わせて詠んでみてください。
『万葉集』の代表的歌人。
『万葉集』には、柿本人麻呂作の歌と『柿本人麻呂歌集』としての歌、合わせて約400もの歌が残る。
優れた歌人であり、『古今和歌集』では「歌聖」と称えられる人麻呂。しかし、その人物像や生涯は謎に包まれた部分が多い。
柿本人麻呂は、現在の天理市櫟本町を本拠地としていた、和爾(わに)氏の支流である柿本氏の出身。和爾下神社の参道脇には、人麻呂の遺骨を葬ったとされる歌塚が残る。
「歌聖」人麻呂の特徴として挙げられるのが、序詞の上手さ。
想像力が豊かで、比喩表現の使い方が巧みだ。人麻呂の出現以前の歌には見られなかった言葉や表現を用いて、人麻呂独自の枕詞や序詞を使っている(巻1-41「くしろ着く・答志」や巻1-36「御心(みこころ)を・吉野」など)。
なかでも、巻2-131の歌は、比喩表現が素晴らしい。
「美しい玉藻のようにゆらゆらと私に寄り添って寝た妻を置いて行かなければならない。旅路の多くの曲がり角ごとに幾度となく振り返って見るが、妻の里は遠く離れてしまった。高い山も越えてきた。私のことを恋しく思っている妻の家の門を見たい。靡(なび)け、この山々よ」。
山という絶対的に動かせないものに対して「靡け」と表現するあたりに、人麻呂の優れた才を見ることができるだろう。
「袖を振る」とは、相手の魂を自分の身に寄せる動作で、愛の表現。「好きだ」というアピールです。ここでは、袖を「振る」と「布留(ふる)」をかけています。
禁足地には、祭神である神剣・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を祀る本殿があります。
『古事記』や『日本書紀』にも記される石上神宮は、万葉人にとっても特別な社だったのでしょう。今の神杉と万葉人が見た神杉が同じかどうかはわかりませんが、年輪を重ねた木には、崇めたくなるパワーを感じます。
当時ここに橋が架かっていたかどうかはわかりません。「高橋」は地名のことを指すという説もあります。
「高橋」と「高高」はかけ言葉。「妻はわくわくして待っているだろうに、すっかり夜が更けて遅くなってしまい、申し訳ないなぁ」という男性の気持ちをうたっているようです。
現代風に訳すと「私のこと忘れないでね。心変わりなんてしないから」。例えば、留学や単身赴任など期間限定で遠くへ行くときの気持ちと似ているかもしれません。