長尾神社 ながおじんじゃ
記入年月日 2016/06/24
- 所在地
- 奈良県葛城市長尾471
- 区分
- 複合型 | 複数の歴史文化資源を包含する歴史文化資源
- 指定内容
※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。
- 歴史文化資源の概要
- 【 ご祭神 】
長尾神社は延喜式の神名帳に載る式内大社です。
ご祭神は、天照大神・豊受大神で伊勢神宮の内宮外宮の神様です。
さらに、江戸時代の社伝では、水光姫命・白雲別命も祭神とされています。
長尾神社の神宮寺は、昔の葛下郡内である王寺町片岡にある放光寺(現在は禅宗)です。神宮寺の『放光寺古今縁起』(1302年)、『大和志』(1734年)、『大和志料』(1946年)によると、当社のご祭神は古くより伊勢神宮の内宮外宮の大神で、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)に載る天照大神・豊受大神です。
さらに正徳3年(1713年)の社伝には、水光姫命と白雲別命もご祭神とされています。水光姫命は『古事記』『日本書紀』では、神武天皇東征に際し吉野郡川上村井光に巡幸の際、井戸の中から現れた国津神として記される井光・井氷鹿で、記紀には、体が光って尾が生じていたと記されています。水光姫命は、「水の神・井戸の神」で、『新撰姓氏録』(815年)では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘・豊御富登であり、水光姫の名は神武天皇が授けられたもの」としています。
当社は、長尾・竹内・木戸・尺土・八川の5ヵ村の総社で、各村には、厳島神社(長尾)・春日若宮神社(竹内)・八幡神社(木戸)・春日神社(尺土)・市杵島神社(八川)が鎮座しています。
【 主な祭礼 】
3月4日 祈年祭 及び おんだ祭
10月4日 例大祭
11月23日 新嘗祭
6月夏至 夏至祭
毎月1日 月次祭
境内社 厳島神社(大字長尾の氏神、末社として春日神社)
7月中旬 夏祭
10月中旬 秋祭(地車曳行あり)
【 神階 】
神階は貞観元年(875年)『日本三代実録』に従五位、弘安4年(1281)に正二位に、享保9年(1724)には正一位に昇進しました。
【 鎮座地 】
当社は『日本書紀』推古天皇21年(613)に敷設された日本最古の官道といわれる竹内街道と横大路を結ぶところに鎮座し、竹内街道の東の起点、横大路(初瀬街道)の西の起点であり、さらに長尾街道や高野街道も交差する古代の主要街道の要衝地にあたります。 なお、長尾街道の名称は当社の名前からつけられています。
長尾神社の鎮座地北側からは、二上山がちょうどいい角度と大きさの美しい姿で望めます。
作家の司馬遼太郎氏(ご母堂が氏子区域の竹内出身)は『街道をゆく(第1巻)』の中に、
「二上山は…長尾の北端から見た景色が大和で一番美しい…」と記されています。
当社は伊勢の神宮と東西一直線の地にあり、夏至の日には二上山の雄岳と雌岳の間の「馬の背」に太陽が沈む姿を見ることができるところに鎮座しています。そのため当社では、夏至の日に、夏至祭を執行し、神饌にはこの時期にふさわしいサバ寿司、小麦餅、そうめん、麦酒、酢だこ、瓜、などの特殊神饌に、近年、これらを使用する現代的なもの、例えば、たこ焼き等も供えています。
また、古代大和国十五郡のうち、葛上郡の高鴨神社、忍海郡の笛吹神社、それに葛下郡の当社は、いずれも式内の大社であり、各々の郡の中の筆頭神社である上、東経135度42分で南北一直線のライン上に鎮座しています。このラインには一言主神社や博西神社などの式内社や古墳などが並ぶ、いわば大和の西側の聖なるラインといえるかも知れません。
當麻寺の神名帳には「鎮守長尾大明神」と、当社の神社名が最初に記されていて、修正会でも読み上げられています。県内の寺院でも正月のオコナイ(修正会のこと)の神名帳でも当社の名が読み上げられますが、東大寺の修二会の神名帳だけは、「<長屋>大明神」と、延喜式神名帳には記されていない神社名が読み上げられています。<長屋神社>は奈良県内をはじめ近畿地方に実在しませんが、これはその昔、写した際、僧侶が<長屋王>の名を思い浮かべて<長屋>と<長尾>を混同したためと指摘されています。
【 竹内街道 】
竹内街道は、官道として整備されたのは613年ですが、
(ア)旧石器時代には二上山で産出されたサヌカイトが竹内峠を越えて各地に運ばれたこと、
(イ)弥生時代には大陸から伝わった稲作文化が竹内峠を越えて奈良盆地にもたらされたこと、
(ウ)3世紀には二上山から切り出された石が箸墓古墳(桜井市)に用いられたこと、
(エ)4世紀から5世紀の陵墓・古墳が二上山の西麓(現在の大阪府太子町)に数多く残って
いること、
(オ)『日本書紀』履中天皇即位前紀(427年頃)では「當麻徑(たぎまみち)」と記され、難波
から竹内峠を通って大和へ至っていること、
などから、すでに古代よりかなりの人々の往来があったとされています。
長尾神社は古代の主要街道の要衝に鎮座することから、道行く人たちを守護するいわゆる道祖神としての役割も果たしてきました。そのため、当社は推古天皇21年(613年)以前から当地に鎮守神として祀られていたと考えられています。
交通の要衝かつ道祖神ということから、長尾神社は古くから、国家安泰・家内安全・子孫繁栄・無病息災などに加え、「交通の神」、「災難除けの神」として慕われてきています。
1995年(平成7年)に、竹内街道は国(当時の建設省)により、「歴史国道」に選定され、神社北側の道路に一部石畳みのカラーアスファルトが敷設されました。
2013年には竹内街道敷設1400年祭(『日本書紀』推古天皇613年の大道より)が行われ、関連する奈良県や大阪府の自治体ではイベントが行われ、長尾神社境内でも、関連の市町村から首長が集まり、笛太鼓演奏、相撲甚句、燈火行事などのイベントが行われました。
【 當麻衝(たぎまのちまた) 】
『日本書紀』(天武天皇・壬申)に「當麻衝(たぎまのちまた)」とありますが、これは長尾神社の鎮座地にあたります。
古代の大和国の東西の幹線路である横大路は、長尾神社が西側の起点で、そこから河内方面へ向かう道は二上山の南を通る竹内峠越え(竹内街道)と岩屋峠越え、二上山の北を通る穴虫峠越え・大坂道(長尾街道)に分かれます。
この分岐点を古代には當麻衝と呼び、これらの街道は、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島からの要人や文物が難波の港から都へと運ばれる重要なルートでした。
壬申の乱(672年)7月4日の大和における戦いは、乱の勝負を決する重要な戦いとなりました。
当時この地の豪族であった長尾直真墨(ながおのあたいますみ)が大海人皇子(天武天皇)の方で戦い、當麻衝(長尾神社の地)から北西(長尾街道)へ進んだ地点で近江方の大友皇子の軍勢と激突し、戦いに勝利しました。則ち當麻衝は軍勢を北へ転進させるポイント地点となりました。
また長尾街道の存在は壬申の乱での功績ばかりでなく、その後の當麻寺建立(680‐692年頃)を可能とするほど、地域の飛躍をうながしたとも考えられています。
【 葛下郡の総社 】
天武天皇は、乱に勝利した功績で葛下郡の一郡を当社に献じられました。これにより当社は大和国十五郡のひとつの葛下郡全体の総社となりました。
天武天皇が壬申の乱の戦いで勝利を得た場所ということから、当社は「勝負の神様」でもあります。
【 県社へ昇格 】
県社昇格への申請を提出していましたが、ちょうど日中戦争が始まり、さらに太平洋戦争となって、たいへん混乱した状況の中、ついに認可されずに終わりました。
【 境内 】
長尾神社の境内は、『大乗院寺社雑事記』の検注帳(1150年頃)によると、久安年間(1145-1150)に三丁三反(九千九百坪)の所領があったとあります。
享保9年(1724)の記録では境内五千七百弐拾坪と参道六百坪とあります。
現在は境内・参道を合わせて約四千二百坪で、神社境内は久安年間の4割ほどになっています。
【 本殿 】
本殿は、春日造正面破風付、屋根檜皮葺、二殿並列形で、寛政5年(1793)、安政元年(1854)、明治31年(1898)と建替や修復が行なわれた記録があります。
現今の本殿の建物は明治31年のままで、昭和24年(1949)に檜皮の屋根葺替が行なわれました。
昭和51年(1976)、残念ながら檜皮や職人の不足により、銅板葺きに葺き替えられています。
【 幣殿(へいでん) 】
幣殿は、単層屋根入母屋造で、明治17年(1884)に、再建されたもので、神楽殿ともいわれています。
昭和11年(1936)に拝殿を修復した際に、幣殿と拝殿を繋いで祝詞所にしました。
【 拝殿 】
拝殿は、木造瓦葺き、回廊付き、間口六間半奥行三間半で、寛政元年(1789)に再建された拝殿が、昭和9年(1934)の室戸台風の倒木で損壊したため、昭和11年(1936)に改築されたものです。神紋入りの屋根瓦や使える木材は使用した上で、同一の大きさで再建されました。
平成29年、増改築で、屋根の総葺き替えや向拝の新設、一部増築、排水路の新設など境内の大改修工事を行っています。
【 参道(馬場先) 】
長尾神社参道は、「馬場先(ばばさき)」と呼ばれています。
これは鎌倉時代、流鏑馬(やぶさめ)が行なわれていた名残で、一ノ鳥居から境内入り口の二ノ鳥居まで約300メートル、幅は7メートル余り(4間)あります。
現在、参道はアスファルトが敷かれ、市の管理のもと、多くの車が往き来しています。
【 一ノ鳥居 】(尺土駅から7分)
一ノ鳥居は、天保六年(1835)の石造の一部が破損したため、平成19年(2007)に合金製で建て替えました。3代前の鳥居の土台石(1700年前後)は境内に残されています。
【 二ノ鳥居 】(磐城駅から3分)
二ノ鳥居は、木製の両部鳥居で、神額の上に唐破風の屋根がついた形で、奈良県内でも唯一と思われる非常に貴重で珍しいものです。
鳥居に掲げられた「正一位 長尾大明神」の神額は享保9年(1724)製で、300年ほど前のものです。
現在の二ノ鳥居は、明治31年(1898)1月に改修され、すでに百余年が経っています。
昭和51年(1976)に腐蝕した柱の下を70~80センチメートル切り取った上、各所の修理と塗り替えを行いました。このため、ダンジリの宮入が出来なくなったままです。
平成22年に腐蝕箇所の一部修理と塗り替えました。
【 石燈籠 】
石燈籠は、境内に24基(九対、六基)、あります。
寛文2年(1662)、寛文9年(1669)のものが境内入り口にあります。
さらに古い年代不詳の燈籠も数基あります。
【 手水舎 】
手水舎の手水鉢は石製で、明和6年(1769)のものです。
【 石橋 】
境内入り口の石橋は、安永7年(1778)のもので、境内東側に水路が流れていました。
数十年前に水路が変えられ、アスファルトの道路の下を流れています。
【 絵馬殿 】
絵馬殿は、雨漏り老朽化のため、昭和62年(1987)に全面改築されたものです。
絵馬殿内には現在、大絵馬が3枚あります。安永元年(1779)の大絵馬は、中国風老人の絵で、金箔付きの色彩画です。その他は明治33年(1900)、明治36(1903)のものです。
また、誕生後初めての秋祭りの宵宮に氏子の人々が奉納する絵馬を祀っています。男児は武者絵、女児は慰と姥の絵が描かれたもので、県内でも葛城地方付近(北は王寺町、南は旧新庄町、東は大和高田市付近)だけで見られる珍しい風習です。
【 なで蛙 】
境内入り口に、父と母子の蛙(かえる)の石造物があります。「なで蛙」と呼ばれ、その頭をなでると、「無事帰る」「若返る」「お金が返る」「安産祈願」など願い事が叶うと言い伝えられ、当社のシンボルにもなっています。
- 地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
- 『日本書紀』推古天皇21年(613)の条に敷設された「大道」は日本最古の官道(国道のこと)といわれる「竹内街道と横大路」とされており、長尾神社はこの両道の中継地に鎮座しています。
- 「記紀・万葉集」との関連とその概要
- 「文化資源の概要」に記載のとおり。
- 当資源と関連する歴史上の人物とその概要
- 427年 履中天皇が難波から當麻徑(たぎまみち)(竹内街道)を通って大和(当地)へ至る。
竹内街道は當麻徑と呼ばれ、難波と大和を結ぶ道、當麻へ至る道として使用されていた。
613年 推古天皇は難波と大和を結ぶ大道(竹内街道と横大路)を敷設する。
長尾神社は竹内街道と横大路の中継地に鎮座している。
672年 天武天皇は長尾直真墨らと當麻衝(たぎまのちまた)で活躍し、壬申の乱で勝利を得る。
日本書紀(天武天皇・壬申)に當麻衝との記述が長尾神社の鎮座地に当たる。
672年 天武天皇は壬申の乱の功績で当社を葛下郡の総社とされる。
763年 中将姫が当麻寺へ入寺する。
1348年 護良親王らの兵が竹内峠を越えて吉野へ至る。
1684年 松尾芭蕉が『野ざらし紀行』で竹内街道の竹内に滞在する。
1688年 松尾芭蕉が竹内を訪れ、孝女伊麻に会う。
1853年 吉田松陰が竹内峠を越えて大和を訪れる。
1863年 天誅組騒動で、中山忠光ら天誅組が竹内峠を越えて大阪へ逃れる。
1939年 折口信夫が竹内街道について『死者の書』で「日本評論」に発表する。
1923年 司馬遼太郎は3歳まで長尾神社の氏子区域で育つ。
1971年 司馬遼太郎が『街道をゆく(第1巻)』の中の「竹内越」の項で、「長尾の北端(長尾神社)から見た景色(二上山)が大和で一番美しい」という内容を記されている
- 当資源と関連する文献史料
- 『古事記』『日本書紀』(天照大神、豊受大神、神武天皇、水光姫命)
『日本書紀』 (613年 推古天皇、竹内街道)
『日本書紀』 (672年 天武天皇、長尾直真墨、壬申の乱、當麻衝)
『新撰姓氏録』 (815年 神武天皇が水光姫命の名を授ける)
『日本三大実録』 (875年 「貞観元年己卯長尾神社従五位上」と記載あり)
『放光寺古今縁起』 (1302年 長尾神社の由緒も記載、現在王寺町が保管)
『竹内街道の成立』 (2013年 葛城市歴史博物館
- 当資源と関連する伝承
- 【 蛇婿入り話 】
『古事記』の三輪山神話に蛇婿入り伝説があり、それと同一の話が当社にも『放光寺古今縁起』(1302年)に伝承されています。
「城上郡(今の桜井市のあたり)の美女を嫁にされた神があったが、一向に姿を現さないので、嫁の父が神の着物のすそに長い赤糸を取り付けてその後をつけていった所、長尾宮に入った」とあります。
【 蛇の尾っぽ 】
また三輪明神が蛇の頭で、当社がその蛇の尾っぽという伝承もあります。
「昔、大和に大きな蛇が住み、三輪山を七回り半に取り巻き、その尾は長尾一帯まで届いていた。ナガモノ(蛇)を祀りその最後尾であることからナガモノの尾、すなわち長尾(ナガオ)と名が与えられた」という伝説です。
このことから大神神社(三輪明神)が頭で、長尾神社はその尾にあたると言われており、二社詣りをすると利益があるとされています。
【 竜の尾っぽ 】
また別の伝承では、大和に竜が住んでいたとも言われ、竜王宮(大和高田市)が竜の頭で、長尾神社はその尾にあたるとされています。長尾神社の手水舎の水口は竜です。
また竜王宮が大蛇の胴体で、大神神社−竜王宮−長尾神社が大蛇の化身であるという伝説もあります。そのため、三輪明神と龍王宮の拝殿や本殿が西を向き、長尾神社の本殿が東向きで向き合っているとの説もあります。
【 水光姫と吉野氏 】
神武天皇ご東征の際、吉野の川上地方へご巡幸されたとき、水を汲ませに行かせた人が、井戸の中に体が光って尾のある人がいる、といったそうです。
そこで神武天皇が、「あなたは誰か」と問うと、「私は天から下りて来た白雲別神の娘で、名は豊御富である」と答えました。そこで神武天皇は、豊御富に、水光姫命と名付けたそうです。水光姫命が吉野氏(吉野川氏)の祖先だということです。
【 御陰井 】
水光姫命について御陰井の伝承があります。
むかし、応神天皇の御代(在位270-310年)に、水光姫命が、竹ノ内の三角磐に降臨され、子孫の加彌比加尼(かみひかね)に命じて長尾神社の境内に祀られるようになった、ということです。
水光姫命のお姿は白蛇であって、御陰井に封じた、とされる井戸跡が境内に残されています。
井戸の蓋石をとると大和一面が水浸しになるともいわれています。それだけ水光姫の神様の力が偉大だということです。
水光姫命は、吉野川の水を守る水神で、井戸の神様です。
今でも、葛城市竹内の三角磐には、水光姫が降臨したという天神降塚が残されていますが、所有者の家では、その場所の草を刈ることなどもしてはいけないと、言い伝えられています。
【 ヘビとナマズの水あらそい 】
むかし、大和盆地は大きな湖沼でした。そこには、ヘビやナマズや亀がたくさんすんでいました。
ある時、當麻のヘビと飛鳥川原のナマズが、「自分たちこそが大和の主だ」と、お互いにいい争いを始めました。湖沼の支配権をめぐるこの争いは、ヘビ、ナマズ両者とも、一族の命運を賭ける熾烈な戦いとなりました。
結果、當麻のヘビが勝利し、ヘビは湖沼の水をすべて當麻に移してしまいました。すると當麻の地は、大洪水となりました。そこで水光姫命は、その水をすべて、長尾神社の御陰井の中に封じ込めました。長尾神社にはその井戸跡が今でも残っており、それ以来、井戸のふたははずされたことはありません。井戸のふたを取れば、また大和全体が大洪水になるということです。
一方、負けたナマズの住む飛鳥の川原は、水がかれて空っぽになりました。とんだとばっちりを受けたのが、飛鳥に住む亀たちです。水がなくては生きていけません。
地表におびただしい数の亀がしんでしまいました。この亀たちの霊を供養しようと造られたのが、亀石といいます。今も、亀石は南西を向いていますが、もし西の當麻の方向をにらめば、一帯はまたもとの湖沼に戻ると伝えられています。
【 水光姫の結婚 】
水光姫命は別の名を豊御富といい、豊御富は、日本最古の家系図である国宝「海部氏系図」第四代目、倭宿禰命と結婚したとされています。
京都府宮津市にある元伊勢といわれる丹後一宮の籠(この)神社の宮司の海部家の系図にも記されていて、20数年ほど前、籠神社の先達小長谷章夫様が当社を訪ねてこられたこともあります。
倭宿禰命は、別名、天御陰、椎根津彦ともいい、神武天皇のご東征の際、明石海峡に亀に乗って現れ、神武天皇を浪速や河内、大和の国へ先導したことにより、大和建国の第一の功労者として、神武天皇から「倭宿禰」の称号を賜ったとされる人物です。
【 長尾姓の発祥地 】
当社は西日本の長尾姓の発祥地ともいわれています。『日本書紀』(天武天皇・壬申)に長尾直真墨が大海人皇子(天武天皇)の方で戦い、當麻衝(たぎまのちまた・長尾神社の地)から北西(長尾街道)へ進んだ地点で近江方の大友皇子の軍勢と激突し、戦いに勝利しました。
『大日本地名辞書』(1907)によると、長尾神社は、当地に盤踞した豪族・長尾直氏の祖神とされ、この長尾直一族が祖神を奉祀したのが当社だといわれています。
【 交通の神様 】
長尾神社は古代の主要街道の交通の要衝に鎮座し、道行く人たちを守護する道祖神としての役割を果たしてきました。そのため、「交通の神様」「災難除けの神様」として慕われてきています。
【 勝負の神様 】
『日本書紀』(天武天皇・壬申)に、長尾直真墨が大海人皇子(天武天皇)の方で戦い、 當麻衝(たぎまのちまた・長尾神社の地)から北西(長尾街道)へ進んだ地点で近江方の大友皇子の軍勢と激突し、戦いに勝利しました。壬申の乱の舞台となった當麻衝は長尾神社の地で、当時この地の豪族であった長尾直真墨の功績から、長尾神社は「勝負の神様」といわれて、必勝祈願や合格祈願に訪れる崇敬者もおられます。
【 馬場先の由来 】
一ノ鳥居と二ノ鳥居との間の参道は約300メートルあります。鎌倉時代の古文書によると、例祭日にここで流鏑馬の神事が行われていました。
そのため、今でも地元では長尾神社参道のことを「馬場先(ばばさき)」といっています
- 他地域の関連する歴史文化資源
- 大神神社(三輪明神)
放光寺 (葛下郡・当社の神宮寺)
『放光寺古今縁起』(現在、王寺町が保管)
- 問い合わせ先
- 長尾神社
- 電話番号
- 0745-48-3018
掲載されております歴史文化資源の情報は、その歴史文化資源が地域にとって大切であると考えておられる市町村、所有者、地域の方々により作成いただいたものです。
見解・学説等の相違については、ご了承ください。