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旧北畠男爵邸 きゅうきたばたけだんしゃくてい

記入年月日 2018/01/01

所在地
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺2丁目
区分
建造物 | 住居建築
指定内容

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
法隆寺東院伽藍(とういんがらん)から少し南に行ったところにあります。北畠治房が居住していた屋敷で、「布穀園(ふこくえん)」とも称されていました。斑鳩町内では貴重な明治時代の近代和風建築の一つです。また、長屋門は京都の淀城から移したと伝わっています。なお、長屋門の一部は現在、「布穀薗(ふこくえん)」という名の和カフェとして活用されています。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
『斑鳩町歴史的風致維持向上計画』において、「歴史的風致形成建造物」の一つとなっている貴重な近代和風建築であるためです。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
北畠治房〈天保4年(1833年)~大正10年(1921年)〉 平岡鳩平(きゅうへい)(平岡武夫)、または煙管(きせる)屋鳩平ともいいます。伴林光平をはじめとする勤王の志士たちと親しく交際し、31歳の時、天誅組が尊王攘夷の先駆けとして五條代官所襲撃を企てていることを知り、襲撃には間に合わなかったものの、伴林光平とともに天誅組に参加しました。その直後の政変で京都の攘夷派が失脚し、大義名分を失った天誅組が「暴徒」として幕府軍に攻められて壊滅すると、鳩平は大和(奈良県)を脱出して長州(山口県)で義勇隊を結成しました。戊辰戦争が勃発すると、有栖川宮熾仁親王に従って東征し、江戸開城に付き従いました。明治維新の後、南朝の功臣である北畠親房の子孫と称し、北畠治房と改名しています。明治維新に功績があったことから、39歳の時に司法省へ入り、59歳で大阪控訴院長になり、明治29年(1896年)、63歳の時には華族に列し、正二位(しょうにい)の位階と男爵の爵位を賜りました。その後、官を辞して故郷の斑鳩に戻り、89歳で逝去しました。
当資源と関連する文献史料
北畠男爵家関連資料(奈良県立図書情報館所蔵)
問い合わせ先
斑鳩町文化財活用センター
電話番号
0745-70-1200

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