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川原寺跡 かわはらでらあと

記入年月日 2023/10/13

川原寺跡
川原寺回廊跡
所在地
明日香村川原
区分
遺跡 | 社寺跡又は旧境内
指定内容
国指定史跡

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
 川原寺は、飛鳥川左岸の飛鳥宮対岸に位置する寺院跡です。その創建事情や造営の経緯は明らかではありませんが、斉明天皇の崩御(斉明天皇 7(661)年)後、近江大津宮遷都(天智天皇 6 (667)年)までの間に、斉明天皇の飛鳥川原宮の故地に、天智天皇が母の冥福を祈って建立した寺院とする説が有力です。
 飛鳥川原宮は、斉明天皇が川原に設けた 2 番目の宮で、『日本書紀』には即位した斉明天皇元(655)年の冬、飛鳥板蓋宮が火災にあったため飛鳥川原宮に遷宮したとあり、翌年、後飛鳥岡本宮に移っているので、臨時の宮であった可能性があります。
 壬申の乱を経て宮都が飛鳥に戻った後の天武天皇 2 (673)年3 月、川原寺に書生が集められ、一切経の写経が行われたとの記事が『日本書紀』にみえ、これが川原寺の初見です。天武天皇 14 (685)年から翌朱鳥元年にかけて川原寺に関する記事が頻出し、天武天皇の病気平癒を祈願する読経の場、天武天皇崩御後の追善供養の場として、しばしば用いられたことが分かります。
 藤原京期には大官大寺、薬師寺、飛鳥寺とともに四大寺と称されますが、和銅 3(710)年の平城遷都に伴い順次新京へ移されたなかで、川原寺だけは移転が行われず、興福寺が新たに創建され平城四大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺)が成立した。その後の川原寺の地位は低迷し、宝亀 2 (771)年、田原天皇の国忌が初めて川原寺において修され、天皇の強い管理下におかれるようになるが、天長 7 (830)年に施行された『弘仁式』では、田原天皇の国忌は弘福寺で修めると定められる。9 世紀前半頃、別当、検校がおかれるようになり、『川原寺牒』にある勤操、空海の実弟である真雅や真雅の弟子、孫弟子にあたる、真然、寿長、聖宝、観賢が次々と弘福寺別当、検校に補任され、真言僧による川原寺の支配が進行していきました。延久 2 (1070)年の『近江国弘福寺領荘田注進状』には、この年以前に川原寺が火災に遭い、文章等が焼失したとの記述があります。このときの火災で焼け残った遺物を埋納した場所が川原寺裏山遺跡です。承暦元(1077)年の『大和国広瀬荘本縁次第案』では、自ら「東寺末寺弘福寺」と称するようになり、12 世紀初頭には三綱が解体、所領も東寺に吸収され、川原寺は東寺の荘園を管理するだけの存在となりました。建久 2 (1191)年頃には二度目の火災、室町時代後期には落雷によって三度目の火災に遭いますが、もはや伽藍の復興はかなわず、江戸時代中期頃には草堂一宇を残すのみとなりました。なお寺領を記した永久 4 (1116)年の東寺文書に、「高市郡東三十条三里六坪二反六十歩並畠字亀石垣内」とあるのが、今に残る亀石の最古の記録です。
 川原寺は発掘調査の結果、南大門を入ると中門があり、そこから延びた回廊が正面の中金堂へと取り付きます。回廊に囲まれた中には、西に金堂、東に塔が聳えていました。中金堂の北側には講堂と楼状建物(経楼・鼓楼)が建ち、さらに三面僧房が取り囲んでいます。金堂の礎石は通称「瑪瑙の礎石」と呼ばれている白大理石の礎石を使用していますが、他の堂塔は飛鳥産石英閃緑岩です。寺域は南北 333m、東西は 200m 以上の規模を有し、南大門は橘寺北門と向かい合うように建っていますが、この間には下ツ道より飛鳥宮に至る幅 12m の東西道路が敷設されています。なお、寺域北西の丘陵南裾(川原寺裏山遺跡)には 9 世紀代の堂塔焼亡に係わる遺物を投棄した土坑が見つかっています。現在は、仏陀山東南院弘福寺があり、川原寺を引き継いでいます。本尊は十一面観音(木造 85cm)で、平安初期の多門天、持国天は国の重要文化財となっています。また、伽藍遺構部については国直営の整備がなされ、基壇及び礎石が現地に復元整備されています。この遺跡の整備方法は、以降、全国の遺跡整備のスタンダードとして広まっていき、我が国の寺院整備の典型例とされています。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
 伽藍の整備が行われており、様々な事業で活用されるとともに、多くの来訪者が訪れて多様な展開が認められます。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
 はじめて文献史料に記されるのは『日本書紀』で、創建に関する記載ではなく一切経をはじめたとする記事となっています。その後も伎楽団の派遣など、たびたび登場します。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
斉明天皇の菩提を弔うために天智天皇が創建したと考えられています。
当資源と関連する文献史料
『日本書紀』
当資源と関連する伝承
飛鳥四大寺に数えられるなど、隆盛を誇りましたが、平城京遷都に際して唯一飛鳥の地に残りました。
他地域の関連する歴史文化資源
南方には橘寺が所在し、立地から関係性が窺えます。
問い合わせ先
明日香村教育委員会事務局文化財課
電話番号
0744-54-5600

掲載されております歴史文化資源の情報は、その歴史文化資源が地域にとって大切であると考えておられる市町村、所有者、地域の方々により作成いただいたものです。
見解・学説等の相違については、ご了承ください。