近畿日本鉄道旧東信貴鋼索線軌道跡 きんきにほんてつどうきゅうひがししぎこうさくせんきどうあと
記入年月日 2024/04/24



- 所在地
- ①近鉄信貴山下駅~②旧信貴山駅(現信貴山バス停)
- 区分
- 複合型 | 複数の歴史文化資源を包含する歴史文化資源
- 指定内容
- 車両等の町指定有形文化財と軌道跡の町指定史跡
※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。
- 歴史文化資源の概要
- 三郷町は長く信貴山朝護孫子寺への参詣道として発展してきた歴史背景を持ちます。立野村、勢野村、南畑村それぞれで、時代によって栄えた信貴山参詣道が通っていました。その中で大正11年(1922)5月16日から昭和58年(1983)8月31日までの62年間にわたり運行していた東信貴鋼索線は信貴山参詣の歴史にとって重要な記録となっています。明治25年(1892)に亀瀬隧道が開通し湊町・奈良間の鉄道が全通すると、信貴山の参詣者は王寺駅にて下車し、勢野村からの新道を利用するようになりました。しかし、道程は急峻な坂道となっており王寺駅から徒歩で1時間あまり掛かっていました。このことから、大正11年に信貴生駒電気鉄道株式会社(後の信貴生駒電鉄㈱)によって、王寺・山下(現在の近鉄信貴山下)間の鉄道線との山下・信貴山間の鋼索線の営業を開始しました。これによって、王寺から10分余りで旧登山道の6丁目付近(現在の信貴山バス停)まで到達することが可能となり、大幅に交通の利便性が向上しました。この鋼索線は生駒・箱根の強羅に続いて日本で3番目に作られたものでした。これに合わせ、信貴山朝護孫子寺では表参道を大阪側から奈良側に移しています。その後、昭和5年(1930)には信貴山電鉄株式会社によって大阪の高安山にも鋼索線(現在の西信貴鋼索線)と山上鉄道が築かれ、昭和19年(1944)までは信貴山には2つの鋼索線と1つの山上鉄道という大掛かりな参詣システムが築かれていました。しかし、戦中・戦後の混乱の中で山上鉄道は失われ、施設の老朽化もあり昭和58年に東信貴鋼索線も廃線となり、現在は大阪側の西信貴鋼索線のみが稼働しています。
- 地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
- 三郷町は旧奈良街道が通り、大阪と奈良の物流の要衝であったと共に、旧奈良街道から分岐する形で信貴山参詣の要衝ともなっていました。信貴山参詣道は近世から大阪側、奈良側とそれぞれあったことが分かっており、その参詣道に沿って集落が形成されていました。近代に入り、参詣道がそれぞれ東信貴鋼索線、西信貴鋼索線と変化していく中で、元々の参詣道で生活を行ってきた方々の移住が行われており、その結果として現在の信貴山参道の寺町が形成されました。これらのことからも、信貴山の参道の移り変わりが、町の形成に大きく影響しており、東信貴鋼索線の歴史もその重要な記録であると共に、多くの人々の記憶となっています。
- 当資源と関連する文献史料
- 三郷町役場『三郷町史』上・下巻(1976)、信貴生駒電鉄株式会社社史編纂委員会『信貴生駒電鉄社史』(1964)、近畿日本鉄道株式会社『近畿日本鉄道100年のあゆみ』(2010)、吉川文夫「信貴生駒電鉄鋼索線とその産業遺産」『産業考古学』第77号(1995)
- 他地域の関連する歴史文化資源
- 信貴山
- 問い合わせ先
- 三郷町環境整備部ものづくり振興課
- 電話番号
- 0745-43-7343
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