都の造営を詠んだ二首です。当時の人々にとって、都の造営は神の仕業(しわざ)だったのでしょう。天皇を現人神(あらひとがみ)とする思想の高まりです。 題詞は、両歌が壬申の乱(天武元(六七二)年)平定後のものと記します。よって、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)(天武元年に造営、朱鳥(しゅちょう)元(六八六)年に宮号を定める)以後の宮都を詠んだことが分かります。 上記二首の都はいつのものでしょうか。飛鳥浄御原宮周辺は、宮や寺が建ち並び、赤駒の腹ばう田や水鳥の集まる沼が広がっていたとは考え難い状況です。また、歌が記録された天平勝宝(てんぴょうしょうほう)四(七五二)年の漢字原文に、「京師」「皇都」(読み下しの「都」に該当)とあり、大規模造営が想起されます。 飛鳥浄御原宮は、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)を受け継いだもので、その後に大規模な改修・造営の記録がありません。歌の情景が実景ならば、壬申の乱後であること・飛鳥浄御原宮でないことから、藤原京造営の歌と考えることもできます。 作者大伴卿の肩書を左注は「大将軍贈右大臣」とします。大伴氏の贈右大臣は、死後に右大臣を追贈された御行(みゆき)を指します。ただし、御行は壬申の乱で功績がありましたが、大将軍任命の記録がありません。大伴氏の有力者では、吹負(ふけい)が将軍、旅人(たびと)が征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任命されましたが、贈右大臣の記録はありません。贈右大臣を重視し、大将軍について軍事氏族大伴氏を束ねた立場と解するなら、大伴卿は御行とするのが有力です。壬申の乱で活躍し、その後の藤原京造都まで見届けたのでしょう。 (本文 万葉文化館 中本和)
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