奈良盆地の南部、高市郡高取町。その南東にそびえる高取山(標高五八四m)の山頂に、かつて、難攻不落の山城(やまじろ)、高取城があった。
南北朝時代以来、豪族の越智(おち)氏、豊臣秀長の重臣、本多氏、譜代大名の植村氏らの居城として威容を誇ったが、今は、壮大な石垣のみが残る。秋は紅葉がとくに美しい。
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昔、矢田村(今の高取町谷田(やた))の池の谷に、細長い小さな田が十枚ほどあった。この田は村の常楽寺の所有で、とれた年貢米はお寺のおっぱん(仏様に供える米や坊さんの飯米)として納められた。
この田の作人は二人いて、上と下、半分ずつに分かれていた。だが、このあたりは水利が悪く、上の田には十分な水があったが、下半分はいつも水が不足していた。
しかし、下の作人はお地蔵さんを信じる正直な人で、とれたお米が少ない時も、上の作人より多くのおっぱんを寺に納めていた。
ある年、大変な旱(ひでり)が続き、上の田でも水がなく、とても収穫できそうになかった。ところが、不思議なことに、朝になると、上の田には水がないのに、下の田には水が一面に満ちていた。上の作人は、きっと下の作人が夜中に水を取りに来ているのだと思った。また取りに来るに違いないと思い、ある晩、上の作人は弓矢を持って山で待ちかまえていた。すると、人影が上の田に来るように見えたので、狙いを定めて矢を放った。確かな手ごたえがあり、作人はそのまま家へ帰っていった。
翌朝、田を見に行くと、下の作人は元気に働いているではないか。不思議に思い、昨夜のことを話して詫び、下の作人と寺へお参りに行った。すると、お地蔵さんが横に倒れていて、なんと、肩に矢が二つに折れて突き刺さっていたのだ。それから、そのお地蔵さんは「身代わり地蔵」と呼ばれるようになったそうだ。
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常楽寺は、杉、檜の林の中にひっそりと建つ。ささやかな境内に本堂と庫裏(くり)。身代わり地蔵さんは、今も、谷田の村人たちの手でしっかりと守られている。 |
木造地蔵菩薩立像
今年6月、県教育委員会の調査により平安時代中期の制作と判明、貴重な古像として注目されている。高さ約88cmで、左手に宝珠、右手に蓮茎を持つ(後世の補修)。唇に今も朱が残るが、かつては全身に美しく彩色が施されていた。寺伝では、満米(まんまい)上人の作という。満米は平安時代に大和郡山市の矢田寺を中興した満慶(まんけい)和尚のこととされる。
むかしばなしの矢傷のあとは見られず。すでに治癒したか?
常楽寺の本堂
建立年は不詳。明治初年に廃寺となったが、明治12年に再興。年に2回、地蔵まつりが行われる。
たかとり城まつり(11月23日)
高取城跡(国指定史跡)につながる土佐街道一帯を会場に、時代行列や火縄銃の実演等が行われ、フリーマーケットも出る。今年は第25回を記念して「かごかき競争」が復活。一段と華やかになりそうだ。
「常楽寺」(高取町谷田)へは…
近鉄吉野線葛駅下車、線路を渡り、東へ約1km。因光寺を過ぎ、高取丹生谷簡易郵便局の交差点を北東へ。谷田公民館手前を山手に入る細い道を徒歩で、約100m登る。谷田公民館横に駐車場あり(5台程度)。
※拝観は下記へ要連絡
問 高取町まちづくり課 TEL 0744-52-3334(内線322)
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