道徳教育の大切さはだれもが認めています。けれども、それをいったいどのようにしたらよいのかについては、だれも確かな答えをもっていない、というのが今の私たちの状況であるように思われます。子どもの教育だけではありません。道徳に関して混迷しているのは、むしろ私たち大人の方かもしれません。私たちが昨年、奈良で直面した酷い事件は、単に特異な人間の異常な犯罪ではなく、多くの大人が生き方を見失っている私たちの社会の歪みの象徴ではないかと、改めて深い痛みを感じるとともに自戒します。
しかし、私たち大人には、育ちゆく子どもたちの先に立って歩む責任があります。そしてその責任の最前線に立ってくださっているのが教員の方々です。その教員の方々の仕事を応援するのが、奈良県道徳教育振興会議の役目です。その際、私たちは次のようなことを心がけてきました。
一つは、「あるべき」道徳や道徳教育の在り方を押しつけるのではなく、教員や保護者と学校外の社会や地域の人々とが共に考え、共に創っていく過程を大切にしたい、ということです。県内の様々な分野からメンバーに出ていただいている振興会議は、三者のコミュニケーションの一つの重要な場となり得るのではないか、と考えています。この資料もまた、そのための手がかりとして利用していただければ、と願っています。
もう一つは、子どもたちの心に本当に響く道徳教育にするためには、それが抽象的・一般的なものではなく、私たちが現にその中で生きている風土や歴史、伝統に根ざした営みでなければならないのではないか、ということです。換言すれば、私たちの奈良ならではの道徳教育の在り方を追求できたら、ということです。この資料には、そんな願いも込められています。
私は先に「混迷」と書きました。しかし、カオスは創造性の源泉でもあります。近代の日本の歴史の中で道徳教育は、各々の時代の状況と結びついて、時に大きなカタストロフィーに加担してしまったり、また時に激しい二元的な対立に巻き込まれたり、という困難な道をたどってきました。困難は今に始まったことではありません。むしろ今は、だれもが一元的な「答え」をもっていないからこそ、公共的なコミュニケーションによって私たちの新しい道徳教育を創造していく好機である、と考えます。
この資料が、そして奈良県道徳教育振興会議が、そのための一つの媒介となり得ることを、心から願いつつ。
平成17年3月