『古事記』の中で、第十代の崇神(すじん)天皇(御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと))は、大和王権の勢力拡大に尽力(じんりょく)した天皇として描かれています。この時代、まだ大和から東の方の支配が盤石(ばんじゃく)ではなかったことから、まず北陸・東海・丹波方面に軍勢を派遣し、確実に勢力下に置こうとしていたようです。 建波邇安王(たけはにやすのみこ)(第八代の孝元(こうげん)天皇の子)の反乱は、大和にいる天皇の軍勢が少なくなるこの隙(すき)を狙(ねら)って起こりました。結論から言うと、建波邇安王(たけはにやすのみこ)の狙いは、北陸方面の将軍に任命されていた大毘古命(おおびこのみこと)(孝元天皇の子)と一人の少女の出現によって阻止(そし)されます。 建波邇安王(たけはにやすのみこ)の狙いも知らず、北陸に向けて軍勢を進めていた大毘古命(おおびこのみこと)でしたが、山代(やましろ)の幣羅坂(へらさか)(京都奈良府県境付近)で歌っていた少女の歌に耳を傾けたところ、天皇の危機を知らせる内容であったため、反乱に気づき、急いで大和に引き返します。そして、反乱軍討伐(とうばつ)のために、改めて態勢(たいせい)を整えることになりました。 建波邇安王(たけはにやすのみこ)軍は、山代の和訶羅河(わからかわ)(木津川)で待ち構えていましたが、建波邇安王(たけはにやすのみこ)は、大毘古命(おおびこのみこと)軍に新たに加わった日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)(和邇臣(わにのおみ)の祖)の放った最初の矢で、あっけなく射落(いお)とされてしまいます。態勢を整えたことが功(こう)を奏(そう)したのでしょう。 『古事記』では、歌で危険を知らせてくれる少女が、王権にとって重要な役割を果たしています。 (本文 万葉文化館 竹本 晃)
編集部の古事記コラム 今回のお話にでてくる大毘古命軍と建波邇安王軍の戦いの舞台は、現在の京都府木津川市や井手町、精華町のあたりとされています。 近鉄やJRの駅がある精華町の祝園(ほうその)は、戦いで敗走した建波邇安王軍をほふった(やっつけた)場所という意味で「はふりぞの」と呼ばれていたことが由来になっているという説があるそうです。 祝園には建波邇安王の霊を鎮めるために建てられたという祝園神社があり、毎年一月にその霊をなぐさめるため、いごもり祭りが行われます。
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