風物詩は時世時節(ときよじせつ)で遷り変わるものとはいえ、自分がある程度の年齢を重ねてくると、消えていったものへの懐旧の気持ちが年々強くなってきます。特に正月の風物詩には、なくなって欲しくなかったものがたくさんあります。
一番残念に感じることは、正月に日の丸を掲揚する家がほとんどなくなったことです。そもそも、ご家庭に国旗のご用意がないのかも知れません。多くの国民が国旗を持っていないのは、世界的に見てもおそらく日本ぐらいでしょう。戦後のいびつな国家観の帰結を感じ、この国の将来を考えたとき、暗澹とした気持ちになるのは私だけではないと思います。
歳神の依り代となる門松や注連飾り(しめかざり)も、近年は新鮮な自然素材を用いたものはめっきり減り、プラスチックや紙で代用された簡易なものばかりになって、訪れた歳神さまは、きっと嘆いておられるのではないかと心配です。門松飾りは、竹と荒縄で建築足場を組んだ鳶職たちの年末の一稼ぎでした。また注連飾りは、農閑期の農家の副業だったのでしょう。しかし高度成長期に、足場は鉄パイプになり、竹を荒縄で縛る技術は衰退し、農家では稲をコンバインで短く刈り取ってしまうため、長尺の稲わらを用いる細工物ができなくなりました。正月の風物詩に欠かせない凧揚げも、畑や空き地がなくなった都市部ではほぼ絶滅状態。独楽回しや追い羽根(羽子板遊び)に興じるこどもたちも見かけなくなりました。
昭和30年代初めまでは、大阪の街にも「獅子舞」のほかに、門付け芸の「萬歳」が回って来ました。「萬歳」は、雅楽・舞楽の「萬歳楽」や「狂言」に起源を持ち、楽人の装束を着けた太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が、小鼓を打ちながらめでたい言葉や歌をやり取りするご祝儀芸でした。大和萬歳や三河萬歳、近江萬歳など、全国各地に各大名が保護した萬歳があったようですが、明治になって後ろ盾を失った彼らは、街を流す門付け芸人となりました。そうした芸風を辛うじて伝えていたのが、昭和40年代の寄席番組に出演していた小鼓を打つ悠長な萬歳コンビ 捨丸・春代が懐かしい思い出です。しかし、彼らが現在の漫才やお笑いタレントの源流だということもすっかり忘れられてしまいました。
20年ほど前までは、私の工房にも松の内に何組かのお年始客があり、そのために簡単な酒肴を用意していたものですが、15年くらい前からは殆どなくなりました。また、年々増える「あけおめメール」に押されて、年賀状も減る一方だとか。せめて消えていった正月の風物詩に思いを込めて、文部省唱歌の「一月一日」でも口ずさんでみましょうか。令和四年が、前向きで幸せな一年であるように願いつつ。
文部省唱歌「一月一日」1893(明治26)年
年の始めの 例(ためし)とて
終(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝(いお)う今日こそ 楽しけれ
初日(はつひ)のひかり さしいでて
四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに 比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ
図版:菅楯彦(すが たてひこ 1878−1963)『萬歳図』
2021年12月28日
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司