第31回 内山永久寺

 天理大学近くの天理市杣之内町一帯には、古代からの古道「山辺の道」に沿って旧石器時代から連綿と続くたくさんの遺跡がありますが、その中でも私が以前からとても気になっていた内山永久寺趾を、このたび雑誌の取材で初めて訪ねることができました。
 神仏習合が盛んであった大和国において、内山永久寺は、廃仏毀釈の際に興福寺以上の壊滅的な被害を蒙ったことで知られます。仏像を研究していると、「内山永久寺旧蔵」と記された仏像にしばしば出逢います。そのいずれもが素晴らしい出来映えであることから、さぞや力のあったお寺だろうとは思っていましたが、明治初めに伽藍そのものが消滅しているため、いままで訪れる機会がありませんでした。
 鎌倉時代の『永久寺置文』(東京国立博物館蔵)や『菅家本 諸寺縁起集』によると、この寺は永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願によって、興福寺大乗院第二世院主の頼実によって創建されたとのこと。その後、東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ大和国有数の大寺院に発展し、天理市布留町の石上神宮の神宮寺として絶大な勢力を誇ったといいます。天正13(1585)年には、五十を超える塔頭を擁し、『大和名所図会』に載っている境内図によれば、池を中心とした浄土教式回遊庭園には、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの宿坊や子院が建ち並んでいたことがわかります。その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」と呼ばれていたそうです。
 しかし明治初年から、当時の寺内でもっとも力のあった藤原氏出身の僧侶・上乗院亮珍自らが積極的に神仏分離を推し進め、豪奢を極めた堂宇はことごとく破壊され、仏像や什宝は略奪の対象となって、明治9(1876)年頃には寺宝がすべて失われてしまったのでした。
 寺外に流出した仏像・仏画・経典類はいずれも鎌倉時代の傑作揃いでした。石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)、藤田美術館・両部大経感得図(国宝)、東博・愛染明王坐像(重文)などのように、日本各地に散逸した同寺の宝物の大半が、現在では国指定文化財となっていることからも、この寺の隆盛が伺えます。私の東京の自宅近くにある世田谷観音寺には、運慶の孫の康円が1272年に制作し、同寺から紆余曲折を経て当地に辿り着いた「木造不動明王立像および八大童子像(重文)」が安置されており、以前からなにやらご縁を感じていたのでした。

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『大和名所図会 巻之四 内山永久寺』『内山永久寺記念碑』

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『石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)』


 浄土信仰に基づく西に開けた傾斜地の旧境地内には建物はなにひとつ遺っていませんが、かつて堂宇があった場所は平坦な地勢を呈し、地面を這うように剪定された柿の木などの畑になっていました。『太平記』に記された後醍醐天皇の萱御所(かやのごしょ)の石碑の前には、かつての本堂前にあった池が残り、帝の愛馬が亡くなってワタカ(別名馬魚)という魚になったという悲しい言い伝えも、一層わびしさが募りました。
 まだ肌寒い中、山の辺の道を元気に歩いているハイキング姿の人たちを多く見かけましたが、内山永久寺に思いを馳せている人はどのくらいいたのでしょうか?

 2022年3月21日に、内山永久寺趾のすぐ近くに、なら歴史芸術文化村がオープンします。奈良県に関わる歴史芸術や文化、及び文化財保護などを体験することができ、しかも飲食・物販に加え宿泊施設まで完備した画期的な研修施設で、県庁職員のせんとくんも、太郎冠者の装束でお迎えいたします。ぜひこの施設を拠点にして、大和の国の栄枯盛衰や人の愚かな所行に思いを馳せる旅もたまにはよいのではないでしょうか。


2022年3月3日
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司

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