第26回 奈良湖

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 19,000年前の最終間氷期後に始まった地球規模の温暖化は、日本では、縄文時代のまっさかりである6,500年前後をピークに、暖かい黒潮が東北地方沿岸まで北上し、海水面が最大で100m以上上昇して、海水が内陸深くまで押し寄せました。これを「縄文海進」といいます。永い間、縄文時代の多くの貝塚が海岸線付近ではなく、内陸部の高台で発見されることが考古学者にとって大きな謎でしたが、環境考古学の発達によって縄文海進で説明できるようになりました。そしてこの海進によって、列島沿岸各地に大規模な内海が形成されたこともわかりました。現在の東京23区の大半は、武蔵野台地とそこから伸びた上野台地、本郷台地、麹町台地などの半島状に突きだした五つの高台を除いてすべて海に沈んでいました。また房総半島は大きな島状を呈し、関東平野では、埼玉県の大宮一帯が内海に突きだした半島となり、栃木県では鬼怒川上流まで海没して香取海を形成していたという風に、今の日本の大都市の多くが、かつては海の底であったわけです。そして、この温暖化と海進によって、クリやトチなどの堅果の広葉樹が繁茂し、遠浅の沿岸漁撈が発達して、縄文時代の食生活を支えました。結果的に、この豊かな狩猟採集生活のおかげで、再び寒冷化する縄文時代晩期まで、手間の掛かる稲作が日本列島に広まらなかった最大の理由と考えられます。

 以前の寄稿で、「現在の河内平野は、かつては河内湖という大阪湾と繋がった大きな入江」であったことは書きましたが、同じように、奈良盆地にも一万年ころまで奈良湖(大和湖)といわれる大きな湖があったそうです。三輪山から春日山までを繋ぐ古代の道・山辺の道は、その名の通り山裾を縫うように曲がりくねって起伏が激しいのですが、これは奈良湖の名残を残す池や沼地を避けた結果であったと考えられます。やがて紀伊半島の地殻変動によって水が西の方へと大阪平野に流れ始め、沼沢地帯となりました。そして藤原京から平城京へ遷都するときに、水郷地帯に運河や水路を整備しつつ干拓が進められ、南北縦貫道である大和三道が整備され、平城京は、奈良盆地北辺の山麓を含んで造営されましたが、その高台の一等地に藤原不比等は興福寺を造営しました。しかし、京域の南半分の地勢は水捌けが悪く、衛生面でも決して住みやすい場所ではなかったために、疫病の蔓延に悩まされ続けた聖武帝は、早々に再遷都を考えなければならなかったといわれます。

 高校時代の古文の時間に、舒明天皇(7C)御製の以下の歌が出てきたとき、「二上山や生駒山ならわかるけれど、なぜ奈良盆地の天香具山から見渡して、『海原に鴎(かもめ)立ち立ち』なのかな?」と不思議に思ったものですが、奈良湖由来の広大な沼沢地帯の存在を知って納得がいきました。


大倭(やまと)には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎立ち立つ。
うまし国ぞ。あきづしま大倭の国は。

 地球規模の気候変動は、人智の及ばない壮大な営みです。ひとびとは、それに柔軟に対応し自らの生活習慣を適合させつつ生きながらえてきたことが、この極東の小さな列島国の歴史を考えただけでもよく分かります。ただわずか150年ほどで激増した人類が生み出す石炭や石油由来の廃棄物による環境汚染や二酸化炭素排出の問題は、私たちの存在と活動そのものが原因である点で、本当にやっかいです。このことは、また稿を改めて考えたいと思います。 

※図版「山辺の道」(天理市ウェブサイトから)


2021年12月5日

奈良県立美術館館長 籔内佐斗司

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