詩人であり小説家の清岡卓行氏(1922-2006)による随想集『手の変幻』(1966)という名著があります。学生の頃に、古書店で手に入れて貪り読んだ記憶があります。手を主題にした短編集は、『失われた両腕』から始まります。本篇は、思索と言葉の選び方で随筆作法のお手本とされ、学校教材でも盛んに用いられましたので、記憶にある方も多いかと思います。久しぶりに書棚から取り出して読んでみましたが、何年経っても名著は名著でした。
ギリシア彫刻の傑作ミロのヴィーナス(Vénus de Milo)は、両腕を欠失しているがゆえに、その美しさが際立っていることを、詩人である氏は以下のように逆説的に述べています。「ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、ぼくはふとふしぎな思いにとらわれたことがある」。
エーゲ海のキクラデス諸島のひとつミロ島は、本像の他に、アテネ考古学博物館のアポロン像や大英博物館のアスクレーピオス像などヘレニズム彫刻の傑作が数多く発見されていることからも、交易の要として大いに繁栄していたことが伺えます。
このヴィーナス像は、1820年ころに島民が発掘して洞窟に隠していましたが、オスマントルコの役人に没収されました。その後に、フランス海軍の提督がトルコ政府から購入し、ルイ18世に献上されルーヴル美術館に収まったという経緯があります。そもそも「ヴィーナス」とはローマ神話の「三女神のひとり」のことで、本像はギリシア彫刻ですから「アフローディテ(Aphrodita)」と呼ぶべきです。その恥じらいを含んだ半裸の姿は、ヘレニズム時代に好んで制作された女性像の典型です。体部や衣襞の損傷に比べて、面部が不自然なほど無傷であることから、顔にはかなりの補修が施された可能性が考えられます。しかし、本像があまりにも美しく有名となったために、文化財保護の大原則である「当初部最優先(造られた時の状態を最大限尊重し、後世の補修は除去する)」に従った後補部分の除去が行えないまま現代に至ったのではないかと思っています。
この像は、発見されたときから両腕が失われていましたが、左手先や腕の一部と思われる部分は遺されています。そしてそれを用いた復元案が19世紀に提出され、その後もいくつも提案されてきました。しかし、そのいずれもが、決定的な根拠にかけるうえ、両腕のない現状を超える魅力を持たないことから、復元案はことごとく却下されてきました。これは、先に触れた面部の補修が除去されないことともに、本像を愛する後世のひとびとにとっては僥倖であったというべきでしょう。
さて、清岡氏の『手の変幻』の第三篇は、フランス映画『かくも長き不在』(1961)を題材にした『映像と心象』です。戦後のパリでカフェを営む女性テレーズが、ドイツ占領下のパリでゲシュタポに連行され行方不明になっていた夫・アルベールによく似たホームレスの男性を見かけ、店に招き入れます。しかし彼は、彼女のことが分かりません。そこで、彼女はかつて二人で踊った曲のレコードをかけて踊っているうちに、後ろの鏡に映った彼の後頭部の大きな傷を見つけ、それが拷問で負った傷であり、アルベールが記憶を失っていることを理解します。映像の手の動きと心理表現も素晴らしいのですが、清岡氏は、テレーズの心の動きをみごとな筆致で読み解いています。その後二人がどうなったか? それは、ぜひ映画をご覧になってお確かめ下さい。
『かくも長き不在』は、イタリア映画『ひまわり』と双璧を為す戦争の傷跡を女性目線で描いた傑作名画ですが、ウクライナの悲劇を思うにつけ、ただの映像作品以上の切実感を以て、こころに迫ってきます。
参考図版
左:19世紀のミロのヴィーナス復元案(ラヴェッソン)
中:19世紀のミロのヴィーナス復元案(フルトベングラー)
右:映画『かくも長き不在』の一場面
2022年4月18日
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司