小川晴暘と飛鳥園 100年の旅(1) 2024年5月30日

小川晴暘と飛鳥園 100年の旅(1)

深谷 聡(主任学芸員)

2024年5月30日


当館では現在、6月23日(日)まで特別展「小川晴暘と飛鳥園 100年の旅」を開催しております。今回のコラムでは、前回の「学芸員の部屋」にて山本新学芸課長からの予告にありました、「小川晴暘と飛鳥園」について、主に展示室の中では出てこない話題から本展覧会をご紹介いたします。

 

○飛鳥園と仏像写真について

 本展覧会でもご紹介のとおり、飛鳥園は仏像写真専門の写真館として創業しました。改めて歴史的な視点から創業当時、1922(大正11)年頃の状況を考えると、1918(大正7)年に和辻哲郎が『古寺巡礼』の連載を開始、前後する時期には『南都七(十)大寺大鏡』や『日本国宝全集』といった写真と解説をともなった大判の図録が刊行されるなど、印刷物によって仏教美術の文化財としての魅力や価値を紹介する機会が増えてきた時期であると考えられます。NHKがテレビの本放送を始めるのが1953(昭和28)年ですから、写真はメディアとして大きな位置を占めていた時代です。

飛鳥園も1924(大正13)年に古美術専門の機関誌『仏教美術』、そして『室生寺大観』の発刊をはじめ、1929(昭和4)年には『仏教美術』から発展して『東洋美術』を発刊するなど、多くの書籍を発行していますから、飛鳥園の写真は文化財の「記録」を基礎に、メディアとしての役割も意識していたのでしょう。その点は、もしかしたら晴暘が飛鳥園創業前に朝日新聞に勤務していたことが関係しているのかもしれません。

 

○小川晴暘の写真表現について

 そうした飛鳥園の文化財写真としての特性を踏まえて、小川晴暘の写真に目を向けると、「記録」「資料」そして「メディア」としての役割の枠を飛び越えた美的表現の意識が盛り込まれた写真であると改めて感じます。黒バックをはじめとした「飛鳥園らしい」写真表現は、対象を正確に、忠実に撮影するという記録の枠を超えて、仏教美術(仏像)の信仰、祈りのかたちへと向けられた晴暘のまなざしによるものでしょう。

 今回の展覧会では、飛鳥園の現社長である小川光太郎氏から、晴暘にまつわる多くの資料を美術館に持ち込んでいただき、その一部を展示の中でもご紹介しています。それらの資料の中には晴暘の日記や、手帳などの手記が多く含まれていましたが、個人的に印象に残ったのは、それらの手記に、ほとんど必ず文章に添えて挿絵のようなスケッチが添えられていることでした。

ちょっとした旅の記録や、備忘録のようなメモの傍らに、その時の様子や図解、時には手慰みの落書きのようなものまで描かれているのを見て、晴暘は根っこの部分では「絵描き」、表現者であったのだと強く感じました。晴暘は写真を手段としていますが、構図や明暗といった「画づくり」の面では、絵を描く人間としての感覚が色濃く反映されているような気がしています。

 

○図録について

 本展の企画の始まりは、飛鳥園創業100年の記念誌を作ろうという企画が発展したものでした。そのため、本展の図録では、出版を担当していただいた求龍堂に、小川晴暘、小川光三、そして現在飛鳥園のカメラマンをつとめている若松保広氏の写真の魅力を書籍でも伝えるべくご協力をいただきました。特にモノクロの写真作品のページについては、黒(スミ)とグレーの2色を重ねたダブルトーンで印刷しています。黒の版の濃淡と、特別に調色した(特色といいます)グレーの版の濃淡を重ねることで、濃淡の幅が広がり、写真作品の色合いの深さや表現を誌面でも感じていただけるように工夫して印刷していただきました。

 というのもこのダブルトーン、使用しているインクは2色で、通常のカラー印刷は色の三原色であるC(シアン・青)、M(マゼンタ・赤)、Y(イエロー・黄)に加えてK(スミ・黒)の4色のインクを使用するのが標準ですので、インクの種類が少ないのに手間はかかる、というものでして、図録を手に取っていただいた際には、そんなエピソードを少し思い出していただけると、印刷を手がけていただいた皆様のご苦労も報われるのではと思っております。

 

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 今回の本コラム、「小川晴暘と飛鳥園」展のみどころというより裏話的な内容となりましたが、そうした「実は・・・」的なお話ができる場所でも良いかと思いまして、今回は個人的な感想めいたお話を中心に執筆させていただきました。

次回は本展のもう一人の担当、三浦学芸員から、また違った話題で展覧会について執筆の予定です。

 

(2024年5月30日)