エドワード・ゴーリーを巡る“終わらない”旅 ―残酷なだけでない豊かな作品世界―
村上 かれん(学芸員)
2024年10月24日
奈良県立美術館で現在開催中の「エドワード・ゴーリーを巡る旅」展。
こちらは2023年から2025年までの全国巡回展で、渋谷区立松濤美術館を皮切りに、千葉・佐倉市立美術館、神奈川・横須賀美術館を経て当館は4つ目の会場です。当館での閉幕後、2025年に愛知・松坂屋美術館、香川・高松市美術館を巡回する予定です。
さて、ゴーリーの作品は、イギリス風のクラシカルな印象が強いかと思いますが、ゴーリーは実は日本文化に強い関心を抱いていました。そこで、せっかく日本の古都・奈良で開催するのだから、当館所蔵の日本美術作品とゴーリーを比較したら面白いのではないか、ということで、
奈良県立美術館独自の関連展示「エドワード・ゴーリーと日本文化―20世紀アメリカの眼―」を企画しました。
ゴーリーと日本文化について調べていくと、私の中の「ゴーリー像」が大きく変わりました。今回の学芸員の部屋では、私なりに考えたエドワード・ゴーリーの魅力について紹介させていただきます。
世界一残酷な絵本作家?
インターネットでゴーリーについて調べていると、「世界一残酷な絵本作家」という評判が散見されます。
また、ゴーリーの作品を言い表す言葉として、「不安」「不穏」「恐ろしい」「冷酷」などの物騒な言葉が並びます。私も、初めてゴーリーを知ったのは、高校生の頃に読んだこの類の記事でした。紹介されていた『ギャシュリークラムのちびっ子たち:または、遠出の後で』(1963年刊)の中の、理不尽に死んでいく子供たちの様子におののき、なんてこわい絵本を描く物好きがいるのだろう?と思った記憶があります。
たしかに、ゴーリーの死生観は非常にクールです。ゴーリーの作品には、物語特有のハッピーエンドを約束する甘さは一切なく、現実世界で弱い立場に置かれる子供たちが無力なまま死んでいきます。人間ではない、不思議な生き物たちが登場する『狂瀾怒濤:あるいは、ブラックドール騒動』(1987年刊)でも、互いに悪戯をしあう日々の果てに、彼らには「早すぎる死」か「みじめ」な「暮らし」が待っているのです。絵本といえば子供が読むものとして考えると、このような題材と結末ともに、ゴーリー作品は特殊でしょう。そういう意味では、ゴーリーは「世界一残酷な絵本作家」なのかもしれません。
しかし、私はゴーリー作品を「こわい」「残酷」などという認識のみで済ませてしまうのは非常にもったいないと思います。
ゴーリーが日本文化から得たと考えられるもの
ゴーリーの作品の中では、よく人が死にます。しかし、人が死ぬ決定的瞬間のショッキングな場面がグロテスクな描写を伴って描かれることはほとんどありません。
たとえば、『金箔のコウモリ』(1966年刊)の主人公のバレリーナは乗っていた飛行機の墜落により亡くなりますが、その事故の瞬間や彼女の死は具体的に描かれません。飛行機のプロペラに今にも飛び込みそうな黒い鳥の絵と、彼女が出演する予定だった舞台に衣装のみが吊るされるという描写で、彼女の死が表されます。
これは実は、日本文化の「省略」の概念の影響である可能性があります。ゴーリーは生涯に幾度となく応じたインタビューにて、日本文化には省略の美学があると述べています。
たとえば、日本映画に熱中したゴーリーが「もっとも尊敬しているひとり」として挙げた成瀬巳喜男(1905~69年)の映画は、重要な場面を描かないのが特徴とされます。また、ゴーリーがジェイン・オースティンの次に好きな作家として挙げた紫式部の『源氏物語』も、出家後の光源氏の晩年は省略されたともいえますし、薫と匂宮との関係に悩んで姿を消した浮舟への薫の恋路の顛末は記されないまま物語が終わります。
決定的な場面をあえて省略して、余韻を残すゴーリーの方法は、このような日本文化の影響があるように思います。
『おぞましい二人』(1977年刊)のあとがきで翻訳者の柴田元幸氏は、出来事自体を生々しく描かない点に「ゴーリーらしい」「節操」が見られると述べており、2024年10月5日の講演会(11/10まで配信中)で三浦篤氏(東京大学名誉教授・大原美術館館長)は、子供がひどい目に遭う物語が多いが、「ゴーリー作品には美的な配慮がある」と発言されました。このような諸氏の見解を踏まえると、恐ろしい事件の瞬間を省略する方法は、ゴーリー作品の芸術的洗練度を高めているという風にも捉えられ、この点は、ゴーリーが日本文化から摂取したと考えられる要素の中でも核心的な部分ではないかと思います。
他にもゴーリーの作品には、日本美術から、扇や和傘などのモチーフ、雨や余白などの表現方法の引用がみられます。こちらは、ゴーリーの生きた戦後アメリカでの日本文化への関心の高まりが背景にあると考え、関連展示「エドワード・ゴーリーと日本文化―20世紀アメリカの眼―」で紹介しておりますので、ぜひご覧ください。
関連展示「エドワード・ゴーリーと日本文化―20世紀アメリカの眼―」では、ゴーリー作品と日本美術の比較展示をしています。
第1章ではゴーリーが愛した『源氏物語』にまつわる絵画を、
第2章ではゴーリー作品に引用された要素を持つ日本美術の作品を展示。
ゴーリー作品が持つ「謎」と多面性
ところで、日本のゴーリーコレクターとして有名な濱中利信氏は、「絵をどんなに細部にわたって鑑賞しても、テキストをどんなに深く読み込んでも、最後には何らかの「謎」が残るのです。」[i]と述べています。
ゴーリー作品がこのような正体不明の複雑さを持っているのは、ゴーリーが「超」博識だったからではないでしょうか。じっさいにゴーリーは日本文化だけでなく、読書、美術、演劇、映画、テレビドラマに至るまで、東西の諸文化を貪欲に摂取していました。ゴーリーはさまざまなモノからインプットした要素を、頭の中で複雑に絡み合わせ、ゴーリー独自の世界へと昇華させたのです。
今回、ゴーリー作品が「本」であり、ゴーリーも読書家であったことから、奈良県立図書情報館と連携し、美術館での展覧会とあわせて「ゴーリーの世界へ飛び込む――ゴーゴーゴーリー」という図書企画展を図書情報館にて開催しています。その企画のひとつとして、私が図書情報館で学芸員出張レクチャー「エドワード・ゴーリー氏の頭の中を覗く―東西の美術を中心に―」を行いました。このレクチャーの準備をしているときに、ゴーリー絵本の絵を大量に見ていたのですが、西洋美術の先行作品のモチーフやポーズなどもたくさん引用しているのがわかり、ゴーリーの博識さと、先行する巨匠の作品を自身の絵の中に取り入れる巧みさを実感しました。ただ、そのときに私が覗き得たのはほんの氷山の一角で、ゴーリーの頭の中のイメージソースはまさにどこまでも広がる豊かな海、そのものであったと思います。
11月10日(日)まで開催。奈良県立図書情報館では、ゴーリーを知るための参考文献リストともいえる、
図書展示の解説付きブックリストを配布しています。
まとめ ―ゴーリーの「謎」は尽きず、旅は終わらない
まだまだゴーリーファンの皆さんには到底及びませんが、学芸員としてゴーリーを勉強する中で考えたゴーリーの魅力について語らせていただきました。
さいごに、今回の関連展示で伝えたかったことを記します。
◆日本文化とゴーリー作品の関わりは、ゴーリー芸術の多面性を紐解く鍵のひとつ
◆ある文化や作品がほかの作品に影響を与え、新たな芸術が生み出されていく面白さ、その営みの豊かさ
ゴーリーの作品は、たしかに少しこわい。しかし、ゴーリーの作品は、こわいだけではなく、さまざまな文化を吸収した結果生み出された洗練された美と、知的で機知に富んだユーモアの結晶です。濱中氏の言う通り、何度眺めても、何度読んでも、ゴーリー作品の「謎」はつきません。
ゴーリーの原画を展示する当館での展覧会は11月10日(日)に終わりますが、ゴーリーの作品は絵本として側に置いておくことができます。展覧会が終わっても、絵本や図録、ポストカードを眺め、ゴーリーの豊かな作品世界を巡る、終わらない旅に参加してみませんか。
イベント情報
11月2日(土)14:00~15:00 担当学芸員によるスライドトーク
11月3日(日)14:00~15:00 司書コラボイベント「司書の読み、学芸員の眼―ゴーリー深掘りゴリゴリゴーリー」
両日とも、座席は当日先着60名ですが、立見・出入り可能で、当日の観覧券をお持ちであれば、どなた様にも参加していただけます。