奈良はかつて日本の首都だった。6世紀末から8世紀末までの間、天皇の住まいである「宮」は、大阪や滋賀などに移った一時期を除き、そのほとんどが奈良に営まれた。飛鳥京、藤原京、平城京へと。奈良盆地を北上したその軌跡をたどると、日本が中央集権国家として変化を遂げてゆくドラマチックな過程が浮かび上がってくる。
今はのどかな田園風景が広がる飛鳥の地だが7世紀頃は日本の政治と文化の中心で、活気に満ちあふれていた。そのエリアはさほど広くない。飛鳥川の主に東岸を中心とする範囲だったと考えられている。北限は天香具山の南麓辺り、南端は聖徳太子生誕の地といわれる橘寺付近までとも。
このエリアには複数の宮跡が散在するが、これはかつて天皇が代わるごとに新しい宮を造営する習慣があったため。中には一代で複数の宮を営んだ天皇もいたという。宮の場所が変わるたび、役所などが築かれたが、これら飛鳥時代の複数の宮を総称し、「飛鳥京」もしくは「飛鳥古京」と呼ぶ。平城京などとは違い、一つの宮都を指すわけではない。
現在、「飛鳥京跡」の碑が立つ「伝飛鳥板蓋宮跡」は、誰もが知る大事件の舞台だ。645年6月12日。飛鳥板蓋宮にて、朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)の使者から皇極天皇に貢物を贈る儀式が行われた。その最中、中大兄皇子と中臣鎌足らは大臣・蘇我入鹿を暗殺。有力豪族の力に左右される、それまでの「氏族政治」からの脱却を図ろうとした。
このクーデターを、その年の干支にちなんで「乙巳(いっし)の変」と呼ぶ。翌646年、孝徳天皇より「改新の詔」が発布される。天皇専制による中央集権政治を目指そうとする改革は、ここから始まった。そう、あの「大化の改新」である。
ほぼ1世紀に渡って宮が置かれた飛鳥だが、それも持統天皇の飛鳥浄御原宮で最後になった。日本の首都は、当時の先進国である中国・唐と肩を並べて渡り合うべく、より広く平坦な地を求めることになる。