奈良盆地の市街地から、ほんの少し東に位置する田原。茶畑が広がる長閑なこの土地には、どうやら不思議な求心力があるらしい。分野は違えど、気鋭のスペシャリストたちが吸い寄せられ、集う、職人たちの隠れ里だ。「田原やま里博物館」は、職人自らが館長となってその仕事場や生活の場などを公開する、奈良まちかど博物館の一つ。ここでは、伝統の技や文化に触れられる3施設を通して、田原の魅力に迫る。
「この仕事をしている自分は、本当に幸せ者だ」。心からそう思い、口に出して言える人はあまり多くない。「研匠 根矢」の根矢二郎さんは、その幸せ者の一人だ。日本で唯一の理美容道具専門の研ぎ師として、この道40年。直接依頼してくる顧客は近畿2府4県、中部3県に渡り、その数はゆうに千件を超える。
日本の鋏の大半は、コンピューター制御によって機械的に製造されている。材質や作りは世界一。にも関わらず、その中には「切れない」鋏もあるという。「ならば磨けばよいのでは」と思いがちだが、根矢さん曰く、「鋏には、切れるための条件がある」とのこと。「アール(曲がり具合)、ひねり、触面(点)、これら3つを調整してやれば、新品以上の切れ味に“直せ”ます」。
指先を見せてもらった。鋏をグラインダーに押し当てる際の、微妙な間合いを計る人差し指の指紋は摩擦で消えてしまい、その下の皮膚が顔をのぞかせている。「一番時間がかかるのは、『裏すき』『調子出し』という作業。ミクロン単位で調整していきます」。
2009年春、その高い技術が認められ、黄綬褒章を受章した。根矢さんは2代目だ。「父・純三が一生をかけて、どこにもない技術を築き上げた。勲章は父の代りにいただくだけ」とあっさり。受賞後も変わることなく、技を突き詰める毎日を送っている。「私にとって研ぎ師は天職。道を拓いてくれた父に今、心からお礼を言いたい」。
今、傍らには、息子の知和さんが後継者となるべく、修行中だ。将来の3代目「純三」の背中に、根矢さんがつぶやく。「私は本当に幸せ者です」。