かつて奈良には、時の政治、さらには時代までも動かす男がいた。藤原不比等、その名前は聞いたことがあっても、どんな人物だったかご存知ない方も多いのではなかろうか。
中臣鎌足の次男として産まれた不比等は幼少期を、文章の読み書きに秀でた田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の邸で過ごす。法律学者としての素地は、このとき養われたと見ていいだろう。31歳のとき、刑部省の判事となり、下級役人としてスタートを切る。その後、手腕を見込まれ、大宝律令の制定に大きく貢献。法律学者として確固とした地位を築いた。
「不比等には二つの顔がある」と奈良県立図書情報館・館長の千田 稔氏は語る。「法律学者としての顔。そして、権謀術数に長けた政治家としての顔です」。
鎌足を父に持つ不比等は、壬申の乱で敗れた天智天皇側と見なされていた。不遇であってもおかしくない立場だったが、天武天皇から持統天皇の時代になり、政治家としての頭角を現し始める。
不比等は、697年、草壁皇子の御子である軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)を擁立。その後見として政治の表舞台に出てくる。軽皇子の乳母である犬養三千代の力添えで、娘・宮子を軽皇子に嫁がせ、天皇との外戚関係を持つことに成功。これは「私」から「公」の世界へ入ったことを意味する。そして宮子は首皇子(おびとのみこ。後の聖武天皇)を出産する。
「不比等が望んでいたのは、将来、首皇子が即位すること。そのために自ら帝王学を教え、いつも目の届くところに置くほどでした。常に先を読んできた不比等ですが、ここで思いもかけない誤算が生じます」。