竹西さんは、近所に住んでいた、当時奈良市の職員であった川尻タケノさんを通して、市の教育委員会に連絡してもらうことにした。しかし、担当者は戸惑ったという。そのころは、市教委あてに「遺跡が出た」という通報が相次いだ時期。さらには、「太安万侶は伝説上の人物で、実在しなかった」という説も一部ささやかれていた。それら当時の事情を考えると、担当者が躊躇したのもわからなくはない。
そこで川尻さんは奈良県文化財保存課に連絡を取る。対応したのは7年前、高松塚古墳の発掘にも携わった岡崎氏。竹西さんの掘り出した、「…太朝臣…」の文字が書かれた板、つまり「墓誌」を見るなり、言い放った。「これは竹西さん、えらいことや。高松塚以上の騒ぎになりますよ!」。
早速、県立橿原考古学研究所の当時の所長・末永雅雄氏の指揮の下、現場での発掘作業が進められ、1月23日、奈良県庁にて記者発表が行われた。このニュースは、新聞各紙が翌24日の朝刊で一斉に取り上げ、考古学史上まれにみる大発見として、日本中を駆け巡る。のどかな茶畑が広がる田原の上空には新聞社のヘリコプターが数機飛び交い、竹西さんのところへは取材陣が詰め掛けた。「とにかく、びっくりしてもうて…。ひと月ほど取材が続いて、仕事は何もできやしまへんでした」。そのときのことを竹西さんは今でもはっきり覚えている。
ここでふと、考える。竹西さんが、鍬ではなく機械で改植作業をしていたら? 炭や骨の存在に気づいていなかったら? 歴史好きな川端さんや、関係機関への連絡手段を持つ川尻さんが近所に住んでいなかったら?…。このどれか一つでも欠けていたら、墓誌は世に出てこなかったかもしれない。振り返れば、いくつもの偶然が重なり合い、大発見につながっている。
当時61歳だった竹西さんも、今は93歳だ。かくしゃくとしていて、何より餅が好物だとか。「お餅だったら何個でも。正月だけでなく、普段から食べてます(笑)」。
1300年の歴史を掘り当てた御仁が、ふくよかな笑みを浮かべる。