『日本書紀』には応神天皇や雄略天皇が吉野に行幸されていたことが記されている。弥生時代中期より、人々が離れてしまった秘境の地は、歴代の天皇や貴族などが訪れる地となった。
飛鳥時代より宮滝は「神仙境」という捉えられ方に変わる。高い山々が連なり、V字渓谷のような景観、うねりを持つ大河が裾野を流れる様子は、神々が住まう神聖な場所というイメージを抱かせた。吉野川で水浴びをしていたという天女伝説も聞かれるようになる。
656(斉明天皇2)年、斉明天皇が吉野宮を造営する。当時、神聖な山として崇められていた青根ヶ峰を真南に仰ぎ見ることができる場所に宮を造った。青根ヶ峰の信仰は後々まで続く。天武・持統天皇の時代も頻繁に吉野宮を訪れている。特に持統天皇にいたっては夫を亡くした後、在位中に31回も行幸している。理由は明らかではないが、青根ヶ峰への信仰の厚さではないかといわれている。また、吉野宮を特別視していたためとも考えられている。
奈良時代には、聖武天皇が吉野宮の西に吉野離宮を造営。そして、平安時代に源経頼の日記『左経記』に「宮滝」という地名が記された。「吉野」の呼び名が「宮滝」に変わったのだ。以後、かなり長い年月この地は人々から忘れ去られていたことになる。
しかしそれがかえってよかった。万葉人が見たであろう美しい景観が、今も手つかずで残っている。吉野歴史資料館の場所に吉野宮があった。ここから斉明天皇や持統天皇が崇めた青根ヶ峰を、今、同じように見ることができる。