710年、元明天皇は藤原京から約27km離れた平城の地に都を移した。『続日本紀』和銅元年(708)2月15日条にある平城遷都の詔に、青竜、朱雀、白虎、玄武の四神が東西南北を守るとされる地だ。平城京は、東西約4.8km、南北約4.3km。メインストリートである朱雀大路は、平城宮の正門「朱雀門」から平城京の南端「羅城門」までを結んでいた。
朱雀大路を中軸として、西を「右京」、東を「左京」と呼ぶ。左京のさらに東には「外京」という南北約2.1km、東西約1.6kmの張り出し部が設けられた。この「外京」は、左右対称の方形であった藤原京と大きく異なる点だ。天皇の住まいである内裏をはじめ、儀式や政治的行事を執り行う平城宮は、京の北端に営まれた。
この大がかりな遷都は、藤原不比等が主導したものと目されている。不比等は、大化の改新の功労者・中臣鎌足(藤原鎌足)の二男である。かつて大宝律令の編纂に加わったこともあり、律令全般を熟知する辣腕の政治家。持統・文武・元明と3代の天皇に仕え、朝廷で絶大な力を持っていたとされる。平城遷都とともに自らの邸宅を平城宮の東に隣接する一等地に建てたほか、「外京」の中でも特に見晴らしのよい景勝地を選んで藤原氏の氏寺である興福寺を建立したことからも、当時の不比等の権勢が窺い知れよう。
平城京は、現在の奈良市から大和郡山市にまたがる大都市だった。その人口は、およそ10万人とされる。8世紀半ばの聖武天皇の時代は、仏教と政治が深く結びついた時期。華やかな天平文化が最盛期を迎え、平城宮や貴族の邸宅、寺院などがずらりと建ち並ぶ様は、さぞかし壮麗であったに違いない。その一方、政治的な面では、藤原氏による絶対的な影響力によって、天皇専制の中央集権体制が形骸化してゆく時期でもあった。
平城京は740年、恭仁京や難波京への遷都によって一時的に放棄されるものの、745年には再び平城京に遷都されることに。その後は784年の長岡京遷都までの74年間、都が置かれ、政治の中心地であり続けた。
飛鳥京跡、藤原宮跡、平城宮跡では、現在もなお発掘調査が続いている。今、この瞬間にも、これまでの謎を解き明かす歴史的発見があるかも知れない。そう考えると、歴史ファンならずとも胸が高鳴ってくる。