1979年1月。竹西英夫さんは茶畑の斜面で鍬を振り下ろしていた。在来種に比べて品質にばらつきのない品種「やぶきた」に植え替えるため、茶樹の根っこを鍬で1本1本、引き抜いていた。急坂のため重機は持ち込めない。深さ1mに及ぶ直根を手作業で取り除いていく。真冬にも関わらず、額に汗がにじむ。
ふいに手を止めた。掘り起こした先から、黒い物がひとかけら。「炭か?」。腐っておらず、きれいだった。「ここは炭焼きをした跡かもしれない。炭なら使える」。そう思い、家に持ち帰った。
後日も、竹西さんは炭を拾い集めた。そのうち、奥行き40㎝ほどの穴がぽっかり口をあけた。白い灰が見え、その中に、数センチほどの小さな骨が一つ、混ざっている。灰の下からはさらに箱の底板も出てきた。ひっくり返すと、文字が書いてある。「…太朝臣…」とだけ、かろうじて読めた。「子どもの墓が出てきたで。“たちょーしん”って書いてあるわ!」。そう家族に話した。 「ここには、これからもお茶を植えてかなあかんし…。お寺さんに供養してもらおか」と住職の元を訪ねるが、所用のため聞き届けられず。竹西さんは、拾った骨を菓子箱に入れて、そのまま持っておくことにした。
そうこうするうち、近所に住む郷土史の愛好家・川端茂男さんにこの話をしたところ、骨が出た現地を見に来てくれることに。その場ではすぐにわからなかったが、後日、川端さんは興奮しながら言った。「やすまろさんや! 孫の教科書を見てたら、亡くなった年号と文字が一致したんや」。
古事記を編纂した、あの太安万侶? だとしたら、実在したことを立証する、とんでもない大発見である。