持統天皇は694年、耳成山・畝傍山・天香具山の「大和三山」が形作る三角形の真ん中に藤原宮を営んだ。飛鳥からわずか3、4kmほどの距離しかない。こぢんまりとした土地から、広々とした平野部への都うつり。今、甘樫丘に登り、かつて飛鳥京と藤原京があった地を見比べると、ロケーションの違いがはっきりと分かる。
藤原宮を中心とする新都・藤原京は、それまでの飛鳥の宮都とは大きく異なっていた。特筆すべきは、全体計画のもとに築かれた日本初の中国式の都城であること。先進の中国・朝鮮の都城を模し、東西路「条」と南北路「坊」を碁盤目状に配す条坊制とした。その中心をメインストリートの朱雀大路が南北に貫く。
二分された京の東側を「左京」、西側を「右京」とし、街区は格子状に整然と区画された。都全体が秩序正しい方形を成す。当時の推定人口は3万人ないし5万人とも。近年の発掘により、京域については平城京をしのぐ日本最大の古代都市であったことも明らかになっている。ちなみに、「藤原京」とは近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には「新益京(あらましのみやこ)」と記されている。
さて、「大化の改新」以来、天皇専制による中央集権を目指していた朝廷だったが、依然、豪族勢力との拮抗は続いていた。そんな中、譲位した後の持統太上天皇は701年、日本史上初めて律と令がそろった「大宝律令」を発布する。
「律」とは刑法の規定であり、「令」とは官制や行政法などを定めたものだ。この「大宝律令」が果たした役割は大きい。以後、法令や官僚体制が整備され、天皇を中心とする中央集権国家の基礎が確立することとなっていくのだ。
しかし藤原京は、わずか16年で廃都となる。なぜこれほどの大都市が短命で終わってしまったのか? 湧水が起きる沼地が多かったため。ゴミや糞尿の処理が追いつかなくなったため。飢饉や疫病・自然災害が頻発したため。難波津(大阪湾)と都を結ぶ河川の水運の便が悪かったため…。諸説あるが、真相は依然、謎に包まれたままだ。貴方はどう思う?