第49代・光仁(こうにん)天皇は、皇太子の山部(やまべ)親王(後の桓武天皇)に譲位した直後の天応元(781)年に亡くなり、広岡山陵(ひろおかのみささぎ)に葬られたという。しかし、桓武天皇は即位後すぐにその陵を田原東陵(たはらのひがしのみささぎ)へ改葬するよう指示している。この経緯にどんな意味があるのか。天皇の系譜と歴代の天皇陵の位置によって見えてくるものがあった。
光仁天皇は天智天皇の皇子・施基(しき・志貴とも書く)親王の第六皇子。つまり壬申の乱以降、天武天皇の血筋の天皇が続いていた中での、久しぶりの天智系天皇の誕生だった。そのような背景から後に施基親王は天皇号を追尊され、春日宮天皇となる。墓も「田原西陵(たはらのにしのみささぎ)」と呼ばれるまでにいたった。
光仁天皇陵の改葬は、その父が眠る田原西陵の近くへの移動が目的だったのではないだろうか。場所は現在の奈良市日笠町あたりとされ、ここに天智系の御陵が集められているように見える。
対して天武系の天皇陵は以下の通り。元正天皇は奈保山西陵(奈保山東陵は元明天皇陵)、聖武天皇は佐保山南御陵、光明皇后は佐保山東陵と、奈保山・佐保山と呼ばれる現在の奈良市法蓮町あたり、平城宮の北方東側の丘陵地に集まっている。宮殿北側への埋葬は、中国の影響を受けてのことだろう。
このことから改葬の目的は、陵墓を整理することで天智系・天武系と目に見えるように区別したかったからではないかとも考えられる。桓武天皇が抱えていた皇統意識の現れといえるだろう。
墓をわざわざ移動するなんて、と思うのは現代人だけらしい。当時、改葬は珍しいことではなかったようだ。タブー意識がそもそも違うのだ。
かつて陵墓では遣唐使派遣の報告、また雨乞いなどの祭祀も行われた。国家の一大事を支える重要な場所だったのだ。だから埋葬地には最大の関心と配慮が払われたのだろう。