707年、文武天皇が夭逝する。これは、不比等にとって予想外の出来事だった。当時、首皇子は6歳。「このまま他の候補が即位すると、将来、首皇子の即位はないかも知れない」。そう危ぶんだ不比等は、秘策に打って出る。かつて天智天皇が皇位継承についてまとめたとされる『不改常典(ふかいのじょうてん)』を持ち出し、こう言い放った。“皇位継承は嫡子相続が必定。今は亡き天智天皇がそうお決めになったのだ”、と。これには周囲も黙らざるを得ない。
千田館長曰く、「まさに印籠を出すようなもの。『不改常典』が本当に実在したのかは分かりません。不比等の虚言だった可能性もある。しかし、その言葉に周囲は従わざるを得なかった。それほど不比等の言葉には説得力があり、かつ、彼の存在自体も強大だったということでしょう」。
首皇子の成長を待って、天皇として即位させたい―。そのために不比等は、元明天皇という女帝の中継ぎを画策。政権は実質、不比等の傀儡となった。710年の平城京遷都についても、不比等が主導したもので、元明天皇はそれに従わざるを得なかったと目されているが、「すべては首皇子のためだったのでしょう」と千田館長。「当時の先進国だった唐の都・長安の設計理念に忠実な平城京をお膳立てし、新都で首皇子を即位させること。これこそが不比等の宿願だったのではないでしょうか」。
一方で、不比等は、犬養三千代との間に生まれた娘・光明子を首皇子のもとへ嫁がせるなど、皇室との関係を着々と深めていく。不比等の死後になるが、首皇子は聖武天皇として即位。また光明子は光明皇后となるが、これは皇族以外から立后した初めての例でもあった。藤原氏は、これら不比等が張り巡らせた外戚関係を基盤に、その後の繁栄を謳歌することとなるのだ。
さて、右大臣正二位まで上り詰め、720年、その生涯を62歳で終えた不比等だが、生前、空席だった左大臣に任ぜられようとした際、固辞して受けなかったという。しかし計算高い不比等のこと、そこに何らかの巧妙な意図があったのではなかろうか。
「左大臣になったら、自分がいた右大臣のポジションにいずれ誰かがつくことになる。すると、これまで築き上げてきた権力構造にほころびが生じる。もしかすると、不比等はそう考えたのかも知れません」と千田館長。さらに、不比等の人物像に関して、興味深い指摘も。
「大宝律令の制定作業の中心人物として適任だったと思われます。というのも、不比等は情緒的人間ではなく、論理的思考の優れた左脳人間でした。その証拠に、日本最古の漢詩集『懐風藻』には不比等の漢詩が5篇収められていますが、万葉集には一首もないのです」。
奈良時代、これほどまでに権勢を誇った不比等だけに、国史である『日本書紀』の編纂にも関与していたと思われるのだが、今のところ確証は得られていない。今後の考古学の成果を待ちたい。