壬申の乱に勝利した後、
生まれ育った古代飛鳥文化の中心地で
新しい国作りを進めた天武天皇と皇后の持統天皇。
そうした中、『古事記』『日本書紀』の編纂も時を同じくして取りかかられた。
記紀編纂の道を訪ねれば、
記紀に記されなかった歴史の真実にも、出会えるかもしれない。
飛鳥川に沿ってなだらかに続く高さ約148mの丘陵で、展望台から開ける大和三山の眺めは爽快。『万葉集』とゆかりの植物に親しめる歩道も整備され、木漏れ日の下でゆったり散策することも。
『古事記』『日本書紀』には「甜白梼岡」、「味橿丘」などの表記で允恭(いんぎょう)天皇の記事に登場。姓(かばね)の混乱を正すため「盟神探湯(くかたち)」の神事が行われたと伝わる。
麓の甘樫坐(あまかしにいます)神社ではこの神事を今も継承(4月にあり)。東麓遺跡の発掘調査は蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅がこの地にあったとする『日本書紀』の記述の真偽を含め、注目を集めている。
大己貴神(大国主神)の御子神である事代主神が、高市社である甘奈南備飛鳥社に鎮座されていることが『旧事本紀』に記される。社伝によれば祭神は事代主神、大物主神、高産霊神、飛鳥甘奈備三日女(みひめ)神の四座。天長六(829)年、神託により現在地に遷座された。『日本書紀』には奉幣の記述があり、飛鳥浄御原宮の守護神として奉祀されていたことがうかがえる。
2月に行われる奇祭「おんだ祭」が有名。即興だという天狗とおかめによる“夫婦和合”の所作はリアルで、笑いが絶えない。股間を拭いた懐紙を手にすれば子宝に恵まれるとか。一社一人で氏子はなく、代々飛鳥家が宮司を世襲する。
皇極・斉明朝の宮「飛鳥板蓋宮」は、蘇我入鹿が誅滅された「乙己の変(いっしのへん)」の舞台として名高い。所在地は古くから近くに板蓋神社が鎮座する同地周辺だと伝承されてきた。その答えが、1959年から断続的に続く発掘調査で明らかになりつつある。
遺構には三時期の重なりが認められた。下層の1期は舒明朝の飛鳥岡本宮の可能性が高く、2期は飛鳥板蓋宮。3期は斉明天皇が移り住んだ後飛鳥岡本宮と天武・持統朝の飛鳥浄御原宮と考えられている。この事実は「板蓋宮と岡本宮は同地」とする『扶桑略記』の一説に符号する。
付随する庭園「飛鳥京跡苑池」も確認された。国内最古と見られ、南北230m以上、東西80m以上という規模。噴水施設や中島を供えた優雅な姿が想像されている。『日本書紀』にある「天武天皇の白錦後苑(しらにしきのみその)」かと注目を集めた。現在、奈良県では2016年ごろを目標に復元整備を計画している。
日本最古の銭貨・富本銭が出土した「飛鳥池工房遺跡」も近く、万葉文化館で復元展示を見ることも。どこまでも広い空の下、遊歩道が導くまま、飛鳥時代へのタイムスリップを楽しもう。
天武・持統陵とされている野口王墓古墳。文暦年間に盗掘された時の記録『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』でその内容が明らかとなった。
明治に京都・栂尾の高山寺でこの文書が発見されるまで、天武・持統陵は長らく橿原市の丸山古墳にあてられていた。王墓古墳には武烈陵の伝承があり、文武陵に比定された過去も持つ。
墳形が当時の天皇家に特有の八角形だったこと、天武天皇の棺と、持統天皇の骨壺らしき容器があったことなど、天武陵に皇后であった持統帝が火葬の上、合葬されたとする『続日本紀』の記述に合うなど確定の材料は多い。調査が許されない天皇陵としては異例の事だ。
奈良県内の遺跡(埋蔵文化財)からの出土品を、旧石器時代から平安〜室町時代などまで時代ごとに展示。日本がたどってきた歴史の流れを実物資料で丁寧に解説する。常設展「大和の考古学」に加え、春秋2回の特別展、さらに「大和を掘る」と題した発掘調査の速報展なども開催。しっかり学びたい人には、充実したボランティアによる展示解説がおすすめだ。
映像ライブラリーの利用も可能。情報コーナーでは、豊富な図書はもちろん、これまでに発行された調査速報展などに伴う資料の閲覧が無料でできる。また発掘調査報告書、学会誌、論文集といった専門書は橿原考古学研究所の書庫にて閲覧することも(貸し出しは不可)。利用案内など詳しくは研究所のホームページを参照のこと。
日本に仏教が伝わった6世紀頃から平城遷都までの、飛鳥の歴史と文化を中心に展開する資料館。メインの展示室は万葉集、宮殿、石造物、古墳、寺院の5コーナーからなり、テーマごとに当時の飛鳥の姿を浮き彫りにする。高松塚古墳をはじめとした古墳の遺物、遺跡や寺院の復元模型など、代表的な出土品は見応えたっぷりだ。
また1000年の間地中に眠っていた部材を使い、一部再現された山田寺の東廻廊は圧巻。歴史の重みを感じるとともに、日本の保存技術の高さにも目を奪われる。庭園に勢揃いする飛鳥特有の石造物のレプリカにもぜひ注目を。