平安時代末〜鎌倉時代に起源をもつ環濠集落が現存する地、稗田。
環濠に守られた集落へ足を踏み入れると、
『古事記』編纂に大きく関わった稗田阿礼を祀る賣太神社が鎮座する。
藤原京を抜け、平城京へと南北につづく下ツ道を北上し、
平城京の正門だった羅城門跡へ。
記紀が編纂された時代、下ツ道を行き交う人々に想いを馳せ、
飛鳥の時代から平城京の時代へと記憶を紡いで、
『古事記』を完成させた稗田阿礼の実像に迫る。
住宅街を抜け、濠を渡れば、木々が生い茂る賣太神社へたどり着く。天武天皇に仕えていた舎人(とねり)で、日本最古の書物『古事記』編纂者の一人、稗田阿礼(ひえだのあれ)を主斉神として祀る古社だ。かつては、平城京の羅城門付近にあって、道祖神としての役割を持っていたとされる。
稗田阿礼は、一度目や耳にしたことは決して忘れなかったという。その記憶力を見込まれ、天武天皇から『帝紀』『旧辞』等、古代からの伝承を誦習することを命じられる。元明天皇の代、稗田阿礼が声に出して読んだものを太安万侶が筆録するという方法で、『古事記』は編纂された。
ところで稗田の地は、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)を太祖とする猿女君(さるめのきみ)が居住していた場所でもある。天宇受賣命は、多くの神の前で乳房と陰部を剥き出しにした踊りを披露して神々を大笑いさせ、そのことによって、天岩戸に隠れていた天照大神(あまてらすおおみかみ)を招き出したことが「記紀」に記される女神。芸能の始祖神として芸能・技芸全般の信仰を集める。
また社には天宇受賣命のほか、天孫降臨の際に道案内をしたとされる猿田毘古神(さるたひこのかみ)を副斉神として祀る。『日本書紀』では鼻が長く、背の高さ7尺(約212cm)余り、赤い顔を持つという身体的特徴が書かれており、天狗のモデルではないかとも言われる。天宇受賣命と婚姻関係にあったとされる猿田彦神は、土地・方位の神様。新築や移転などの際にお参りすると良い方向へ導いてくれるという。
かつては奈良盆地に多く存在した環濠集落。賣太神社を中心に壕(ほり)がめぐらされた稗田の環濠集落は、ほぼ完全な形で残る代表例だ。
東西、南北ともに約260mの広さを有し、北東側は「七曲り」と呼ばれる特異な形成をしている。東西、南北に大きな道があり、そこから細い道がのびて、T字形に交差したり、袋小路になっていたりと、遠くが見通せないような構造となっている。史料がほとんど残っていないため、どのように形成されたのかは不明だが、室町時代には現在の形だったとか。
入り組んだ路地の左右に立ち並ぶ民家の土壁に沿って水をたたえる様子は、なんとも風情がある。
羅城門は、平城京の中央を南北に通る朱雀大路の南端に建てられた京の正門だ。当時は、唐や新羅などの使節賓客がこの羅城門から入京していたといい、『続日本紀』にもその記述が残る。昭和44~47年の発掘調査にて門基壇等が出土し、佐保川西側堤防の真下に位置したことがわかった。その規模は、桁行五間(約26m)、梁間二間(約10m)といわれていたが、最近では門の正面が七間(約35m)であったという説が上った。
ぜひ方位磁石を持参していただきたい。晴れた日には朱雀門まではっきり見通せる羅城門橋の上に立ち、平城宮跡の方を望むと、磁石の針は北を指し示す。羅城門と朱雀門が南北に真っすぐ並んでいたことを実感!
平成22年3月にオープンしたイオンモール大和郡山の建設に先立ち、平成17~19年に発掘調査が実施されたことで、今までの定説を塗り替える新たな大発見があった。
それまでは平城京の南端は九条大路とされてきたが、今回の調査で十条大路が検出され、少なくとも平城遷都当初は、左京側(朱雀大路より東側)には十条まで造られていたことが判明した。ただし、十条関連の遺構の多くは遷都20年後の730年ごろには埋められており、その理由は分かっていない。
平城京十条出土品は、イオンモール大和郡山の2階にあるこちらで展示する。また、外周の緑地帯の5ヶ所に条坊道しるべが立てられているほか、羅城が見つかった場所には羅城の柱列を表したモニュメントが立つ。