2010年、平城遷都1300年祭の主会場として360万人以上が訪れた
平城宮跡。初めて訪れた際は、その敷地の広大さや、
復原された建物の壮麗さに惹きつけられた方も多いと思う。
当ルートは、いわば「2回目に歩きたい平城宮跡」。
雅やかな朱雀門や大極殿など、
宮跡内に復原された建物に天平の栄華を感じながら、少しマニアックなルートで法華寺、海龍王寺へと。
華やかな天平文化の影に見え隠れする不比等の権勢を、
歩いて感じ取ってみたい。
平城京は、中国・唐の都、長安を模して造られたといわれている。京の真ん中を南北に貫いていた朱雀大路は、南北約3.7km、路面幅約75mにも及ぶ。その南端は京の正門である羅城門、北端は平城宮の南正門の朱雀門だ。朱雀大路の名の由来は、京の東西南北を守る四神の中の「朱雀」から。
当時、羅城門より入京した海外の使節賓客は朱雀大路を通って平城宮へと案内された。道路の脇には柳や槐(えんじゅ)などの街路樹が植えられ、高く築かれた築地塀(坊垣)が続いていたという。奈良時代、この壮大なるメインストリートを練り歩いた海外使節たちは、どんな気持ちだったのだろう。ただただ圧倒されたのか、それとも、長安の姿を重ね合わせたのか。想像してみるのもまた楽しい。
※写真:小倉百人一首の歌碑については、現在、周辺発掘調査中のためご覧頂けません。
2010年の平城遷都1300年祭に合わせ、第一次大極殿は、9年の歳月をかけて復原された。大極殿内には、天皇が儀式の際に着座された高御座(たかみくら)の実物大模型が展示されているほか、内壁には奈良市在住の日本画家・上村淳之氏が手掛けた四神や十二支の動物絵が描かれている。
天平12年(740)の恭仁遷都まで、第一次大極殿は、天皇の即位式や元旦朝賀、外国使節との面会など、国の最も重要な儀式を執り行う建物であった。710年の平城遷都から10年後の720年。ついに我が国初の正史『日本書紀』が完成し、元正天皇に奏上される。『日本書紀』の編纂が当時の国家の大事業であったことを考えると、その奏上はこの大極殿にて行われたのであろうか。もしそうなら、完成を祝う、さぞかし盛大な儀式が催されたことだろう。
今、大極殿の高御座の正面から南方を望むと、その見晴らしは、まさに“天子、南面す”。町並みこそ違うが、悠久の彼方にある奈良時代にタイムスリップしたような気になってくる。
平城宮にはかつて「東院」や「東宮」と呼ばれる場所があった。東宮とは皇太子の宮殿である。藤原不比等は、この東宮にほぼ隣接する地に自らの邸宅を構えた。皇太子、つまり自らの外孫である首皇子(おびとのみこ。後の聖武天皇)の成長を間近で見守り、即位するその時を待っていたかのようだ。
1967年、平城宮跡の東側で大きな庭園の遺跡が発見された。それまでは文献でしかわからなかった奈良時代の庭園の様相が明らかになり、それを基に復原されたのが、現在の東院庭園だ。東西80m、南北100mの敷地の中央に複雑な形状の汀線をもつ洲浜敷の池があり、周囲には建物が配されていた。時代とともに池は造り替えられ、それに伴い幾度も建物が建て替えられた。朱塗りの橋をはじめ、築山石組、中島、出島の先端に景石が配されるなど、平安時代以降の庭園の原形を見ることができる。
東院庭園のすぐ横にこんもりとした森があり、由緒ある神社が立つ。ひっそりとたたずむゆえ、こんな場所に神社があったのかと驚いてしまう。
『日本書紀』持統天皇6年12月には菟名足(宇奈多理)の名で、伊勢神宮や住吉大社と併せて記載される。御祭神は、中座に最初の神の一柱である高御魂神(たかみむすびのかみ)、東座にその皇子・太玉命(ふとたまのみこと)、西座に思兼命(おもいかねのみこと)の3柱。境内社には、天鈿女命や猿田彦命、手力男命など天孫降臨に随従された神々をお祀りする。
本殿は室町時代築の三間社流造で、国指定の重要文化財。「桜梅神社」と刻まれた石燈籠もあり、光仁天皇の離宮だった楊梅宮の跡と推定されている。
影で政治を動かしていたとされる実力者、藤原不比等。法華寺は、不比等の邸宅跡だったとされる地だ。ここから、天皇の住まいである内裏とは歩いて十数分。その距離の近さが、当時の不比等の権勢を如実に物語っている。
法華寺は、不比等亡き後、不比等の娘で、聖武天皇の妃である光明皇后が父親の財産を受け継ぎ、喜捨して開いた総国分尼寺だ。正式名を「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と称し、往時は現在の法華寺町全体が寺の敷地で、七堂伽藍を構え、隆盛を極めた。
国家の安泰や民衆の福祉のために慈善活動に尽力した光明皇后は、当時流行していた天然痘を鎮静させようと蒸し風呂を建て、自ら千人の垢を落としたとされる「から風呂」が今も残る(江戸時代再建)。
国宝で本尊の十一面観音像は、光明皇后をモデルに造られたと伝わり、毎年3/20~4/7、6/5~6/9、10/23~11/10(予定)に特別開扉される。愛らしい姿で人気の「お守り犬」の授与も行う。
法華寺から徒歩すぐの場所にひっそりと構える古刹。もとは法華寺同様、藤原不比等の邸宅跡であった土地に光明皇后が創建した。北東隅に建てられたため、別称「隅寺(すみでら)」と呼ばれる。
寺自体は飛鳥時代に建立されたが、天平3(731)年に平城宮の鬼門である東北を護るため、あらためて創建。第八次遣唐使の玄昉(げんぼう)が、帰国の途中暴風雨に遭い、唐の経典・海龍王経を唱えて無事に帰国したことから、遣唐使の渡海安全の祈願を営むようになり、経典の書写(写経)も盛んに行われた。現在も、旅や留学の安全を祈願する参拝客が多い。
本尊の十一面観音菩薩立像は、光明皇后が自ら刻んだ十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師が造立したもので、国指定の重要文化財。西金堂には国宝で奈良時代前期作の五重小塔を安置する。
平城宮跡の北西に位置し、平城宮について紹介・展示する資料館。平城宮跡では、1959年より奈良文化財研究所によって本格的な発掘調査が行われたが、その成果や研究をもとに、同館では土器や瓦、木簡などを再現した出土品を展示するほか、役所や宮殿内部の実物大ジオラマを展覧することができる。さらにビデオを通して、よりわかりやすく平城宮を紹介している。
一方、平城京跡遺構展示館では、その名のとおり、発掘調査で見つかった遺構をそのまま展示するほか、第二次大極殿の屋根瓦葺きや、内裏の復原模型を迫力ある大きさで見ることができる。いずれも、平城遷都1300年祭のメイン会場開幕に伴う、2010年4月24日にリニューアルを果たした。