平城京東方に位置する田原は、大和茶の名産地としても知られる。
奈良市街地から鉢伏山を越え、距離にして10km程度。
にもかかわらず、「同じ奈良市内か」と唸るほど、
目に映る光景はがらり一変する。
視界の隅には、茶畑が描くゆるやかな稜線。
地元の方の素朴であたたかな笑顔と出会う喜び。
志貴皇子(しきのみこ)と光仁天皇親子の生き様を見つめ、
太安万侶を傍らに感じながら、隠れ里のような田原を歩く。
「まさか自分の畑から出てくるとは!」。そう話すのは田原で農業を営む宮中 清さん。2006年の発掘調査で木簡や銭貨、絵馬などが出土し、この辺りで奈良時代、何らかの祭祀が行われていたことが明らかに。それまで田原は「天皇や貴族の葬送地」という位置づけが強かったが、平城京などで行われる典型的な律令祭祀と同様の祭祀遺物が出土したことで、都との新たな関わりが見えてきた。雨乞いに使ったと思われる絵馬が、平城京の長屋王邸近くの平城京跡二条大路北側溝から出土した同時期の絵馬と構図がよく似ている点も注目されている。(奈良県立橿原考古学研究所に保管)
現在遺跡は埋め戻され、水田が広がるばかり。しかし当時、祈りを捧げる人々がこの辺りを行き来していたと思うと、また違った景色に見えてくる。
「白壁王」と称された光仁天皇は、志貴皇子(施基親王)の息子で、天智天皇の孫にあたる。当時、皇位継承をめぐる争いが激化していたが、主流はもっぱら天武天皇系。天智天皇系だった白壁王は、皇位継承から比較的遠い立場だったが、それでも普段から酒を呑むなどして凡庸を装い、政争に巻き込まれないよう振舞った。しかし770年、称徳天皇が後継者を指名せずに崩御した際、藤原氏は62歳の高齢だった白壁王を強引におし立て、天皇の位につかせる。一番驚いたのは本人だったかもしれない。
70歳を過ぎてもなお、政務をこなした白壁王だが、第一皇女の死を機に心身とも衰えがちになり、781年この世を去る。なお、息子の山部王は、平安京遷都を行った桓武天皇である。
彼がいなかったら、古代史は今のような形で伝わっていなかったかも知れない。『古事記』をはじめ、『日本書紀』の編纂にも関わったとされる文官、太安万侶。その墓が発見されたのは1979年、茶畑の斜面にて。直径約4.5mの墳墓に収められていたのは墓主を明らかにする墓誌をはじめ、火葬骨や真珠など。(墓誌は現在、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で常設展示)
41文字から成る銘文には「太朝臣安萬侶」の名のほか、居住地や位階、死亡年月日などが記されていた。奈良時代の上級官人の墓が、このように規模や構造、遺物の出土状況等が明らかにされた例は稀である。
息を切らし、急坂を登りきれば、歴史の証人が眠る場所。眼下を望めば、茶畑一面、緑が冴え渡っている。
飛鳥時代や奈良時代というと一見、雅やかな印象をもたれがちだが、権謀術数が渦巻く生臭い政争の時代でもあった。そんな中、天智天皇の息子であり、皇位継承争いから外れた傍系の志貴皇子(施基親王)は、政治よりも和歌に生きた人物だった。
皇子の作は『万葉集』に6首収められているが、いずれも名歌揃い。自然鑑賞に優れており、繊細で美しい歌風は今も色褪せない。陵の入口付近の碑には、皇子の詠んだ、あの有名な歌が刻まれる。
「石(いは)ばしる 垂水(たるみ)の上(うへ)の
さ蕨(わらび)の 萌(も)え出づる春に
なりにけるかも」(万葉集 巻8-1418)
皇子はその温厚な人柄ゆえ、天武・持統天皇にも厚遇されたという。皇位に一切執着せず、その人生は歌同様、澄み切っていた。即位することなく715年に亡くなるが、その55年後、息子の白壁王が天皇として即位したため、「春日宮天皇」と追号。「田原西陵」にちなみ、田原天皇とも称される。