中国の『宋書』などに記される、
讃・珍・済・興・武という五世紀の倭国王「倭の五王」。
その一人・武は、
日本国内の古墳から出土した刀剣に記された銘文により
雄略天皇の可能性が高まっている。
初瀬(泊瀬)界隈は雄略天皇の宮伝承地。
東国に対する要衝地だった当地を訪ねれば、
記紀に多彩なエピソードで描かれた、謎の大王の姿に触れられるかもしれない。
内外に示した強大な力が『古事記』『日本書紀』に語られる雄略天皇は、「泊瀬の朝倉」で即位し宮を定めたとある。文献からは桜井市黒崎または岩坂が宮の候補地とされてきた。ここに浮上したのが脇本地区だ。
埼玉・稲荷山古墳出土の大刀銘は、ワカタケルが「斯鬼(しき)宮」にいたと記す。ワカタケルは雄略天皇のこと。シキは磯城地域のことで、このあたり一帯を指す。
さて脇本では発掘調査の結果、縄文晩期〜飛鳥・奈良時代にいたる複合遺跡が明らかになった。5世紀後半の建物跡などはまさに「朝倉宮」を想起させる。
東国への入口にあった倭王武・雄略天皇の宮跡には今、田畑が広がるばかり。兵どもが夢の跡、だ。
境内に当地の地名・出雲にゆかりの野見宿禰(のみのすくね)の墓と伝えられる鎌倉時代の五輪塔が立つ。祭神は国常立命(くにのとこたちのみこと)など天神七代、国神五代の十二座。
本殿向かって右に武烈天皇社が鎮座する。当社は小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)天皇こと武烈天皇の泊瀬列城(はつせのなみき・『古事記』では長谷之列木と書く)宮伝承地だ。
小泊瀬は雄略天皇の名・大泊瀬と対になる。どちらも暴君として悪名を馳せたが、『日本書紀』に克明に描かれた武烈天皇の残虐性は限度を越える。住宅街に鎮座する静かなたたずまいからは、そんな悪夢は微塵も感じられない。
菅原道真公の神霊が山中の滝蔵権現と語らい、與喜山の地を譲られたと、その縁起を『長谷寺霊験記』などは語る。菅公は雷神となって空を飛び、松の巨木に鎮座。やがて宝殿が建てられたという。
境内には古代の信仰を残す磐座が多数あり、天照大神の降臨伝説も残る。学業成就はもちろんだが、女性の守り神として信仰を集めてきた。
「泊瀬」の語源は初瀬川の磐座・泊瀬(とませ)石。山中の毘沙門天堂の雷落で宝塔が転げ落ちるが、この石の上で“泊まった”ことが由来という。霹靂(かむはせ・雷が落ちること)の地への雷神たる天神の降臨には、深い縁が感じられる。
朱鳥元(686)年、道明上人が開山。真言宗豊山派の総本山で、天武天皇のため「銅板法華説相図」を初瀬山西の岡に安置したことに始まるという。『日本書紀』は当時、天武天皇が病に伏していたと語る。
西国三十三カ所を開いたことで知られる徳道上人は神亀四(727)年、聖武天皇の勅願によって本尊・十一面観世音菩薩像を東の岡に祀った。以来、観音霊場の根本道場として参詣者が絶えない。
高さ12メートル余り。近江国高島郡に流れ着いた楠の霊木を用いて三日間で造られたとされる長谷観音は、與喜山に降臨伝説のある天照大神の本地仏と説かれた。長谷寺では今も與喜山を礼拝しているという。與喜天満神社に鎮座した菅公の神霊は、道明上人のお堂などに詣でたとも伝わり、長谷寺と天満天神の深い関係が見える。
さて、長谷寺には不思議な話も多い。絵馬の弁慶と牛若丸が毎夜剣を交えたために絵馬を塗りつぶした話。天狗のいたずらを懲らしめるため境内の杉の大樹を伐採するも、一本だけ天狗杉として残された話などいとまがない。四季折々の花に魅了されるもよし、国宝本堂の舞台からの絶景にため息吐くもよし。また古き佳き説話に耳を傾けてみるのもいい。