『古事記』『日本書紀』が記す、
第10代祟神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇。
初期ヤマト政権に名を連ねた天皇ゆかりの地を訪ね、
山の辺の道をショートカットする。
大王墓を含む大和・柳本古墳群、そして三輪山の麓・纒向へと。
道中、次々と現れる前方後円墳を“歩き比べ”ながら、
「初期ヤマト政権」誕生の地で、「記紀」の世界をじっくり体感したい。
駅前から一路、東へ。ゆるやかな坂道を歩くうち、左手の町並みが途切れ、黒塚古墳が姿を現す。池に映し出された墳丘のシルエットが美しい。「画文帯神獣鏡」1面と「三角縁神獣鏡」33面の、計34面もの鏡が出土して全国的な話題に。槍や刀など鉄製の武器も確認された。ほとんどの副葬品が当時そのままの原位置を保って出土した、貴重な発掘調査となった。
古墳時代前期の前方後円墳で、全長は約130m。一帯は柳本公園として整備され、地元では身近な散歩スポットとしても愛されている。墳丘への立ち入りが自由なので、前方後円墳が成す立体的な造形を歩いて感じることができる。公園内に併設された天理市立黒塚古墳展示館も必見。
「柳本」交差点を右折すると、こんもりとして、一瞬「森か?」と見まがう大和天神山古墳が見えてくる。墳丘の東側半分は国道169号線の建設と共に削り取られてしまったが、残った西側半分は今も前方後円墳としての姿をよく残す。
墳丘の規模は全長103m、周壕の有無は不明。葺石は認められるが、埴輪は存在しない。1960年に行われた石室の発掘調査では、銅鏡23面や鉄製品などの副葬品が出土。それら銅鏡の中に、前期古墳特有の三角縁神獣鏡が含まれていない点が特徴だ。被葬者は初期ヤマト政権の有力者だと目される。伊射奈岐神社は、この天神山に文明年間より鎮座する古社だ。地元からの信仰も篤い。
さらなる巨大古墳を、続けざまにもう1基。山の辺の道を10分ほど歩けば、全長約300mの渋谷向山古墳だ。古墳時代前期のものと考えられている前方後円墳で、橿原市の丸山古墳(全長約320m)にわずかに届かぬものの、その規模は奈良県内第2位。全国でも7位を誇り、現在、景行天皇陵と比定される。
景行天皇は『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇で、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。身長3m以上の大男で、80人以上もの子供がいたと記されている。纒向に宮を営み、九州から東国まで広く軍を送ったという。
ここで日が沈むまで待つのも悪くない。大王達も見た同じ夕日が、周濠の水面をオレンジ色に染め上げる。古墳南側から望むその光景に、ため息が漏れる。
山の辺の道を南下する。「この道で合っているのかな?」と不安に感じ始めた頃、「巻野内」の標識があるT字路に突き当たるので、ここを左折。ほどなく、左手に小高い丘が見えてくる。珠城山古墳群だ。
古墳時代後期の6世紀に築造された古墳群で、前方後円墳3基から成る。西から順に、3墳・2号墳・1号墳と並んでおり、この地域を支配していた豪族が代々、築き上げたと考えられている。環頭大刀や金銅装馬具など豪華な副葬品のほか、円筒埴輪列なども出土した。
道路沿いの階段を上り、1号墳へ。全長50~55mとコンパクトなので、前方部から後円部にかけての隆起をダイレクトに感じられるはず。頂上に立つと、北に渋谷向山古墳、東に三輪山、南には箸墓古墳、さらには奈良盆地や二上山まで見渡せる。
穴師坐兵主神社(大兵主神社)の境外摂社で、野見宿禰(のみのすくね)を祀る。日本の国技である相撲発祥の地と伝えられる。
第11代垂仁天皇7年7月7日、「カタヤケシ」と呼ばれるこの地で、出雲国の野見宿禰と、当麻邑の当麻蹴速(たいまのけはや)による日本最初の天覧相撲が催された。結果は、野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏みくじいて勝利。野見宿禰は以後、大和朝廷に貢献することとなる。
野見宿禰は埴輪造りの元祖でもあった。それまで続いていた殉死をよしとしない天皇に、埴輪で陵墓を飾ることを提案。それが採用され、土師の職に任ぜられたと『日本書紀』に記される。