飛鳥や奈良の都人にとって、
吉野は近くて遠い神仙郷のようなものだった。
足を踏み入れようとも、
隔絶された自然は絶対的で、人を容易に寄せ付けない。
そこに人が神を見たとしても不思議はないだろう。
水を乞う祈りのために、ひとときの安らぎを得るために、
大和を基盤とした歴代天皇はいく度となく吉野を訪れた。
その面影が今も残る奇跡を、大切にしたい。
今現在「吉野」と聞けば、誰もが桜の吉野山を思い浮かべるだろう。しかし、万葉歌が詠むのは「水の吉野」。吉野の川の美しさだ。①「河蝦の鳴く吉野川の急流のほとりの馬酔木の花ですよ。決して粗末にしないでください」。春の雑歌の一首で、一枝折り取って送った際の歌と思われる。作者は不詳。鈴なりの白い花が、清流を見下ろし揺れるさまが目に映るようだ。
斉明天皇が水の祭祀を行い、持統天皇が幾度も行幸に訪れた吉野宮は、縄文時代から人が住んでいた宮滝にあったとされる。吉野離宮が造営されたのはその西。同じ場に宮がくり返し建てられた事実は、この地の魅力を雄弁に語っている。
持統天皇の吉野宮行幸の回数は突出している。夫・天武天皇に従った吉野での隠棲の日々と壬申の乱の勝利。特別な思いも理解できる。
②「我が大君がお治めになる天下に国は多いが、清らかな吉野の野辺に立派な宮を建てられたので、大宮人たちは朝も夕も川を渡って華やぐ。この川のように絶えることなく、この山のようにますます高くお治めになる、滝の離宮は見飽きることがない」。③反歌「見飽きることのない吉野の川の滑らかさが永遠であるように、またこの滝の都を見よう」。持統天皇は柿本人麻呂の“ことほぎ”をどのように聞いただろうか。
「宮滝は滝にあらず」。貝原益軒が『和州巡覧記』に書いたように、名称から誤解されることが多い宮滝。古語の「タギツ」は川水がたぎり流れるところ。激流する「たぎつ瀬」である。
④「私の旅は長くはないだろう。吉野川の夢のわだよ、浅瀬にはならず淵のままであっておくれ」。歌に込めた願いどおり、大伴旅人は大宰府赴任から二年で帰郷している。しかし、望郷の象徴であった吉野の「夢のわだ」を見ることなく、翌年に亡くなったという。
象の小川が吉野川へとそそぐ、夢のわだ。その美しさは一目瞭然だ。
象の小川にかかる屋形橋を渡れば桜木神社の境内。ざわめく杉檜に朱塗りの本殿が一層鮮やかで、ふと山部赤人の歌が胸を過る。⑤「み吉野の象山の山間の梢では、こんなにも多くの鳥がさえずっている」。鳥のさえずりに満ちあふれる生命力をたくし、聖武天皇を讃美した赤人。自然のみずみずしさは、今もここに息づく。
疱瘡の神ともいわれる桜木明神。祭神は医療の神の大己貴命・少彦名命、天武天皇。その昔、明神が大象に乗って天降ったと伝わるが、「キサ」は象牙の波状の縞文様を蛇行する地形にあてたものという。
天武天皇は桜の大木に身を潜めて兵火を逃れたとされ、後に明神を篤く敬ったという。
谷間を流れゆくせいだろうか。象の小川は歩を進めるごとにその姿を、せせらぎの音を変える。⑥「みんなが恋い慕う吉野。今日訪ねてみれば、なるほどそのように思うのももっとも。山も川もこんなに清らかなのだから」。詠み人は不明だが、心中には同感できる。
神聖視された神奈備・青根ヶ峰に端を発する清流は、やはり特別なものだったに違いない。神聖な川水は吉野川へとそそぎ込み、都人が憧憬を寄せた「たぎつ河内」を育んだ。斉明天皇の吉野宮は、青根ヶ峰を真南に見るように建てられていたという。この貴重な自然を今も堪能できる幸いを噛みしめたい。
静かな喜佐谷の集落を、象の小川をさかのぼるようにして抜ければ青根ヶ峰の山裾。山中へと続く小径はハイキングコースの一つ「吉野山宮滝万葉の道」で、吉野水分神社方面へ抜けられる。
道沿いにあるのが、本居宣長が『菅笠日記』に繊細な姿を描写した高滝。源義経が吉野から逃れる際に通過したともいわれる。
現在のルートとは少し違うものの、奈良時代前後に吉野山へ登るためにはじめて開かれたのがこの道だとか。
高滝へは、吉野山入口にある万葉歌碑から、時間にして10分強。万葉の香りをさらに胸いっぱい吸い込みたいなら、足を伸ばすべし。
縄文、弥生、飛鳥、奈良時代にわたる複合遺跡・宮滝遺跡。各時代の特徴と様子を、さまざまな発掘成果とともに展示・解説する。
キャンプ地のように良い気候時のみ移動してきて暮らしていたという縄文人。稲作に頼らない集落作りをした弥生人。常識とは少し違う“宮滝の人々”の暮らしぶりはとても新鮮だ。縄文後期の標準土器である宮滝式土器、弥生人が葬られた壷棺など、見どころは多い。
飛鳥時代の吉野宮も、奈良時代に造営された吉野離宮の姿も鮮明になりつつある。コーナーでは復元模型などを展開。幻の宮を現代に甦らせている。