天皇が変わるたびに宮がうつされた時代。
万葉歌人は飛鳥を想い、歌を紡いだ。
都が藤原京へと遷った後は、
飛鳥は万葉歌人にとって、変わることのない“心の故郷”だったのだろう。
古代の遺跡や日本の原風景が残る飛鳥で
かつての都を想い描き、
歌人らの心情を感じ取ってみたい。
駅から交通量の多い車道を進むと、右側に大きな池が見えてくる。現在は石川池の名で呼ばれる剣池だ。古くは蓮の多い池だったようだ。皇極天皇の時代、1本の茎に2つの花が咲いた蓮があり、蘇我氏の繁栄を予告するものだとされたが、翌年、大化の改新によって滅ぼされる凶兆だったと伝わる。
蓮をうたった作者未詳の歌がある。①「身に帯びる剣の池の蓮の葉に溜った水のように、行方も知らないあなたを思っている時に、逢うべきだと言って逢ったあなたなのに、母は寝てはいけないと言う。私の心は清隅の池の底のようには、じっと堪えられそうにない。じかに逢うまでは」。池の底にじっと水が湛えられて忍んでいる様子に切ない恋心をたとえている。
蘇我馬子の発願により創建された日本初の本格的寺院。「法興寺」「元興寺」とも称し、現・奈良市の「元興寺」の前身である。日本最古の仏像として有名な「飛鳥大仏」(本尊の釈迦如来像)は、国の重要文化財にもかかわらず間近で拝むことができるのが魅力だ。
境内には山部赤人の歌碑が立つ。⑤「神の降りる山に多くの枝を広げて繁り生えている栂(とが)の木のように、次々と葛のつるの絶えないよう、絶えず通いたい飛鳥の旧都は、山が高く川は雄大である。春の日には山が見たいものである。秋の夜は川が清らかに流れている。朝の雲に鶴は乱れ飛び、夕べの霧に蛙は鳴き騒いでいる。美しい風景を見るごとに思わず泣いてしまう。都として栄えた頃を思うと」。
赤人が詠んだのは、平城京にて天平文化が華開いた奈良時代。藤原京よりさらに前の都であった飛鳥は、ひっそりと静かに時を刻んでいたのだろう。飛鳥の自然を詠むことで往時を懐かしんでいる。
反歌「明日香河 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに」(万葉集 巻3-325)。「飛鳥川の川のよどんでいるところに常に立っている霧のように、懐古の情は簡単に忘れてしまうものではない」。
それほどまでに、奈良朝官人にとっても、飛鳥は“心の故郷”だったのだろう。
飛鳥坐神社の右横の登り坂を上がると、視界が開け、里山の風景が広がる。かつては「大原」と記された地。藤原鎌足の誕生地と伝える大原神社や、鎌足の生母である大伴夫人の墓と伝わる円墳が残る。
大原神社の前には2首の万葉歌碑がある。
天武天皇が、⑥「わが里に大雪が降った。大原の古びた里に降るのは後だろう」と、大原にいる鎌足の娘・藤原夫人に送った。私のいるところはたいしたものだろうと。それに藤原夫人が応戦。「わが岡の 龗(おかみ)に言ひて 落(ふ)らしめし 雪の摧(くだ)けし 其処に散りけむ」(万葉集 巻2-104)。「私の住む岡の水の神に言いつけて降らせた雪のかけらがそちらに降ったのでしょう」。先に降ったなどと得意げに。いつの世も女性の方が一枚上手か。
近い距離にいる二人が天候の言い争いをしていることが、二人の関係を暗示させるようでおもしろい。
継続的に行われている飛鳥の発掘調査では、遺跡が三層4期に重層していることがわかった。最下層の1期は630(舒明天皇2)年に舒明天皇が造営した飛鳥岡本宮、2期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、3期が斉明天皇の後(のち)飛鳥岡本宮と、天武天皇の飛鳥浄御原宮といわれている。
また、先ごろの発掘調査により、飛鳥浄御原宮跡の内郭から北西に、7世紀後半のものと見られる、飛鳥京跡最大級の建物跡が見つかった。天皇の内裏に関連する建物の可能性が高いとしている。
壬申の乱で大友皇子に勝利した大海人皇子は、飛鳥浄御原宮で即位の儀を行い、天武天皇となった。宮を造営した天武天皇を、大伴御行が称えている。⑦「天皇は神であり、赤駒が腹ばう田を都に造り替えられた」。天皇の権力の強大さをあらためて感じたのだろう。以後、藤原京へ遷都するまでの21年間、天武・持統天皇2代にわたる宮となった。
広々とした敷地に今は遺構を残すのみだが、幾人もの天皇が過ごした地に立ち、ここでこそ万葉集を口ずさみたい。
⑧「島の宮の匂の池の放ち鳥は人の目を恋しがって池に潜ろうともしないよ」。草壁皇子が亡くなったことを悼み、柿本人麻呂が詠んだ挽歌。また、⑨「朝日が照る島の宮殿には、胸をしめつけるように人音もない。心から悲しいことよ」と、日並皇子と呼ばれた草壁皇子の舎人も同様に悲しみを詠んでいる。
草壁皇子は、嶋宮(島の宮)という離宮に住んでいた。蘇我氏の邸宅跡に造られ、天武天皇の離宮を引き継いで、皇子の宮となったと推測される。かつては賑わいだ嶋宮も、皇子が亡くなってからは活気を失ってしまった。
嶋宮は石舞台のそばにあったとされるが、現在は駐車場や土産物店が並び、にぎやかであるが、万葉歌は当時の人々の悲しみを今に伝えている。
最後に訪れるのは、明日香を巡るうえで欠かせない石舞台古墳。7世紀初頭の権力者・蘇我馬子の墓だとする説が有力である。
中世の農耕地の開発で墳丘の盛土がとられたものとみられ、巨石を積んだ横穴式石室が露呈した独特の状態となる。天井石の上面が平らで、その様子が舞台に見えることから「石舞台」と呼称されるようになったといわれる。月夜の晩にこの舞台の上で女に化けた狐が舞ったという伝説も残る。
石棺が納められていた玄室内に入ることができるのも、歴史ファンにとっては有難い。中はかなり天井が高く、夏でもひんやりとした冷気を感じる。
ちなみに、30数個あるという迫力満点の石の総重量はなんと約2300トン! 当時の運搬技術の高さに驚く。
万葉日本画をはじめ万葉に関する展示を行うミュージアム、万葉集の情報収集提供を行う図書情報室、日本の古代文化を調査する研究室を併せ持つ総合文化施設。
なかでも、地下1階の一般展示室の内容はどれも興味深いものばかり。歌の広場では、古代の市場や古代発音、アジアの歌垣など、万葉歌を中心とした古代の世界を、ジオラマやパネルなどで紹介。その他、万葉人の生活をインタビュー形式で答えていくクイズや、人形と映像とアニメーションを融合させた「万葉劇場」の上映など、遊びながら奥深い知識を得ることができる。富本銭をつくっていた飛鳥池工房遺跡の復元展示も見逃せない。
万葉集の研究に生涯を捧げ、「万葉風土学」を確立した万葉学者で文学博士の犬養孝の業績を顕彰する記念館。犬養は、万葉歌に詠まれた景観を保全するため、全国の万葉故地に自らの揮毫の万葉歌碑を建立。また、明日香を愛し、古都保存のために尽力したことから、明日香村名誉村民となっている。
館内には、犬養の遺品や直筆原稿、揮毫の万葉歌墨書のほか、万葉の風景の写真などが展示されている。犬養と愛弟子の清原和義氏から寄贈された約7,000冊の図書があり、自由に閲覧することができる。