推古天皇の時代、薬狩りが催されたことが『日本書紀』に記されている。
薬狩りは宮中行事でもあったとされ、男性は猟を、女性は薬草を摘んだ。
天武・持統天皇の時代にも阿騎野(現・大宇陀)で行われたと文献に残る。
稀代の万葉歌人・柿本人麻呂も
草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行し、
この地に秀歌を残した。
持統天皇より仕えてきた人麻呂にとって皇子達の存在は大きかっただろう。
歌に託された想いを紐解き、阿騎野を歩く。
611(推古天皇19)年、陰暦の5月5日、宇陀の菟田野(うだの)で薬狩りを行ったと『日本書紀』に記されている。薬狩りとは、強壮剤とされた鹿茸(ろくじょう)という若い鹿の角を取る狩りのこと。男性は狩りを、女性は薬草を摘んだとされる。
薬草と縁が深いこの地に、現存する日本最古の民間の薬草園がある。450年前から吉野葛を作り続ける森野吉野葛本舗の裏山にある民間の薬園だ。1729(享保14)年、森野賽郭が幕府から与えられた苗木を植えたことで創始した。約250種類あり、四季折々に可愛らしい花をつける。
商家が立ち並ぶ古い街道を進み、神社の碑を目印に山の方へ。急な階段が目に飛び込んでくる。立派な巨木が茂る境内に拝殿があり、奥には天照大神を祀るとされる。江戸中期までは大将軍神社と呼ばれていた。
境内には、柿本人麻呂が草壁皇子の皇子・軽(かる)皇子と阿騎野を訪れた際にうたった万葉歌の碑が立つ。
①「草を刈るしかない荒野だが、黄葉のように他界へ過ぎゆかれた君の形見と思ってこの地に来た」。亡くなった草壁皇子と来たこの阿騎野に、今はその息子の軽皇子と訪れ、感慨深く思う人麻呂の心情が表れている。万葉集 巻1-45の歌の反歌として詠まれた。反歌が4首もある珍しい形で、この歌がそのうちの一つ。
本郷川を浄域とし、優しい緑の木々に囲まれた堂々たる姿。古の頃より変わらぬたたずまいでここに鎮座する。
垂仁天皇の時代、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を祀ったとされ、元伊勢とも伝わる。本殿は伊勢神宮と同じく南向きに建てられた神明造だ。境内にはほかに、寛文年間から大正の頃まで能楽が行われていた舞台があり、1992(平成4)年に薪能を復活。1995(平成7)年からは「あきの蛍能」として、毎年6月中旬に能楽を開催している。能の最中に明かりを落とし、闇に放たれた蛍が舞う様子は、まさに幽玄。神社の前を流れる水路は「蛍水路」と呼ばれ、蛍が育てられている。
境内に立つ歌碑には柿本人麻呂の歌が刻まれる。②「阿騎の野に夜を明かす旅人は身を横たえて静かに寝ることができるだろうか。寝られない。これほど昔のことを思うと」。神楽岡神社の歌碑と同じく、4首の反歌のうちの1首だ。ともに阿騎野を訪れた亡き草壁皇子を懐かしみ、悲しみを湛えている。
古代、宇陀から榛原にかけての範囲を「阿騎」と呼んでいた。かぎろひの丘は、「阿騎」の野と呼ばれた可能性が高い場所だ。
この阿騎野を訪れていた軽皇子に随行した柿本人麻呂が詠んだ、秀歌と名高い1首がある。③「東の野に夜明けのかぎろひの立つのが見え、振り返ってみると、西の空に低く下弦の月が見える」。
「かぎろひ」とは、厳冬のよく晴れた日の、日の出1~2時間前に見ることができる陽光のことだといわれている。毎年12月下旬(旧暦の11月17日)には、かぎろひを見ようと多くの人が訪れるが、なかなか運よくお目にかかれるものでもないようだ。
丘の上には佐佐木信綱揮毫の歌碑が立つ。人麻呂は、ここから美しいかぎろひを見て、何を思ったのだろうか。
かぎろひの丘から降りて少し進むと、広い敷地にぽつんと石像の姿。騎乗する柿本人麻呂の像だ。人麻呂が阿騎野で詠んだとされる歌になぞらえてか、像の人麻呂も東の方角をじっと見つめている。
かつて、旧暦の5月5日は宮中行事として薬狩りを行う日で、阿騎野は皇室の狩り場であった。1995(平成7)年の発掘調査では、飛鳥時代の建造物とされる、大型の掘立柱建物や付属する建物群が見つかった。遊猟の地として重要な建物があったのではないかと推測されている。また、同調査では、同時に弥生時代前期の生活痕跡が見つかり、園内には竪穴式住居なども復元されている。
NHK大河ドラマのオープニング映像として使われたことで一躍有名になり、いまや遠方から花見客がこぞって訪れる大人気の桜に。樹齢300年以上ともいわれる古木だ。大きさもさることながら、横へ下へと力強く枝を伸ばす様子は立派で、4月には淡いピンク色の小さな花びらを幾重にもつける。奥には濃いピンク色のモモ、手前には一面を黄色に染める菜の花が咲き、美しいコントラストを楽しむことも。
大坂夏の陣で活躍した戦国武将・後藤基次(又兵衛)の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼称されるようになったとか。
開花時期にはライトアップが行われる。