いにしえより、その美しい山容へ日が沈んでいく様子から
神聖な山として崇められてきた二上山。
悲運の皇子・大津皇子は
都から遠く離れたこの双峰の山に葬られたと万葉集は伝える。
急峻な山道を登り、奈良盆地を見渡す頂へ。
時代の渦に巻き込まれ、自害に追い込まれた若き皇子の、
その短き人生に思いを馳せてみたい。
※このコースには急坂が多く含まれます。登山に適した服装、しっかりとした準備をした上で、お出掛けください
二上山の麓に広がる自然豊かな公園。木製の遊具やおもちゃ館、水辺のテラス、芝生広場など、子供たちが思いっきり遊べる遊具や施設が整備されていて、家族連れも目立つ。公園の奥に歩くと、急勾配の石段が目に飛び込んでくる。天に向かって反り返るように伸びており、その段数は、なんと456段! 「健康のために」と、456段を往復する地元の方の姿も見られる。階段の両側には梅雨時期になるとアジサイが満開に、秋は紅葉に染まる。階段を上りきった先には「国見の丘」。万葉学者・犬養孝氏による「大津皇子 鎮魂の響」と書かれた鐘があり、時おり風に揺られて、物悲しい音色を奏でる。展望台から一望する奈良盆地は、まるでミニチュアの世界のよう。
大津皇子の遺体が二上山に移し葬られる時、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が哀しみ悼んで詠んだ歌が2首ある。
①「現世の人である私は、明日から二上山をわが弟の君であると見て偲ぶだろう」。そして②「岸のほとりに咲く馬酔木を手折ろうと思うけれど、見せるべきあなたはもうこの世にいない」。
そびえる二上山を見ないようにして暮らすのは、さぞ至難であったことだろう。弟を山に重ね見る大伯皇女の辛さが伝わる。
展望台の右手の小道を行く。木に直接書かれた「二上山へ」の文字を目印にして、その先へと進む。ここから雄岳まで急峻な道のりが40分近く続くが、歩くのに必死になって、周囲の景色を見逃してしまってはもったいない。都会にはない手付かずの自然や季節の移ろいを味わいながら、山頂を目指したい。
大津皇子は、天武天皇を父に、天智天皇の長女・大田皇女(おおたのひめみこ)を母にもつ皇子。文武ともに優れていたうえ、高貴の身分に奢ることもなく、誰からも愛されていたと、『懐風藻』や『日本書紀』は伝える。しかし、謀反の嫌疑をかけられ、24歳の若さで自害に追い込まれる。皇子の亡骸は二上山に移葬されたが、その真意はわからない。荒ぶる魂によって境界の守りとするためという説もある。かつて、太陽の沈む西には死者の世界があったと信じられていたからだ。
現在、雄岳の山頂付近には皇子の墓とされる場所があり、「大津皇子 二上山墓」と呼ばれ、宮内庁が管理する。
大津皇子には、石川女郎(いしかわのいらつめ)という、心から愛する女性がいた。③「あしひきの山の雫に妹を待つとて私は立ちつづけて、山の雫ですっかり濡れてしまった」とうたっている。男が女のもとに通う風習があった時代に、身分の高さをいとわず山の雫に濡れながら愛しい人をずっと待ったとある。
また、陰陽師の津守連通(つもりのむらじとおる)の占いで二人の関係が露見したときは、④「大船の泊(とま)る津守の占いに出るだろうことを知っていて二人で寝たのだ」と、二人の関係が世間に知られても構わないと開き直っているように捉えることができる。それほどこの恋に身を焦がした。
石川女郎は、大津皇子の皇位継承のライバルであった草壁皇子にも慕われていた。なんとも皮肉な三角関係だ。
二上山は大阪と奈良の県境にあり、かつては「ふたかみやま」とも呼ばれていた。雄岳と雌岳が対となり、美しい山容を成している。雌岳の標高は474mだ。雄岳から雌岳へ向かうには、トイレや売店(不定休)、ベンチがある「馬の背」までいったん下って、また少し登ることになる。「馬の背」とは、雄岳と雌岳の双峰の間にできる凹部が馬の背中のように見えることから、そう呼ばれる。
雌岳山頂からの眺望は、「素晴らしい」の一言に尽きる。大和三山をはじめとする大和平野、大阪・河内平野までもがパノラマに広がる。空が近く、澄み切った風が吹き抜ける。先ほどまでいた地上から遠く離れ、別天地に来たような思いがする。かつて二上山を訪れた古人の感慨が歌碑に刻まれる。⑤「大坂を越えてやって来ると、二上山では黄葉が流れていく。時雨が降っている」。
下山は、「馬の背」から祐泉寺へと向かうルートをたどる。鬱蒼とした道を下るが、登りのルートに比べ、ずっと歩きやすい。足取り軽く、雄岳の尾根の先端にある鳥谷口古墳へとたどり着く。7世紀後半に築造された、一辺が約7.6mの方墳で、1983(昭和58)年の土砂採掘中に偶然見つかった。大津皇子の墓ではないかとの説もある。
墓室は、二上山で産出された凝灰岩を使用した、東西に長い横口式石槨(よこぐちしきせっかく)という構造。底石や側壁には家形石槨の蓋石が転用されており、珍しい造り。墳丘や石槨の前面から、須恵器や土師器が発掘された。
寺伝によると、天智天皇朝の頃、この地に弥勒三尊の石仏が現れた。そこで天皇の勅願により堂宇を建てそれを祀り、役行者によって開山したと伝わる。
ここに中将姫の伝説が残る。姫が曼荼羅を織るために蓮の茎を集めて糸を撚り、井戸水に浸して傍らの桜の木に干していたところ、その糸が五色に染まったという。境内には中将姫が使った「染の井」の井戸と、糸をかけた桜の木が残されている。
ボタンの名所としても知られ、春には約420種2700株ものボタン、冬には約30種300株の寒ボタンが咲き誇る。品種によって開花時期が異なり、寒ボタンは12月~1月にかけて見頃を迎える。
寺の創建は白鳳時代。聖徳太子の弟である麻呂子(まろこ)親王が河内に建立した萬法蔵院が前身で、7世紀後半に親王の孫の當麻国見(たいまくにみ)がこの地に移したとされる。
白鳳・天平時代の大伽藍を数多く残し、なかでも、奈良時代に建立された東塔・西塔(国宝)が創建時の姿のまま二基とも現存するのは全国でも唯一だ。
同じく国宝指定を受ける本堂は、威風堂々たるたたずまい。中将姫が織り上げたという當麻曼荼羅(たいままんだら)を本尊として安置する。この曼荼羅は、姫が写経の功徳によって見えた極楽浄土の光景を壮大な規模で再現したもの。姫は縦横4mもの大きな當麻曼荼羅を一夜にして蓮糸で織り上げたという。
藤原鎌足の血をひく中将姫は、美貌と才能に恵まれ、嫉妬した継母から暗殺を企てられ、17歳で出家した。當麻寺は女人禁制だったため入山は許されなかったが、観音菩薩の加護を信じて一心に読経を続けたところ、功徳によって岩に足跡が付き、これによって入山が認められ、「法如(ほうにょ)」という名を授かった。中之坊には、中将姫が髪を剃り落とした「剃髪堂」や、姫の足跡のついた「誓いの石」が残る。
極楽浄土を説き続けた姫は、29歳という若さで二十五菩薩の来迎を受け、極楽往生されたという。
中将姫の墓塔は、寺近くの共同墓地に立つ。